きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
nasu
新井克彦画「茄子」




2000.9.3(日)

 本当にまあ、猛烈に忙しい一日でした。朝7時から自治会自主防災訓練、昼12時半からは自治会運動会、夕17時45分からは運動会の反省会という名の呑み会。疲れて疲れて、防災訓練と運動会の合間には1時間の昼寝、反省会は21時頃切り上げてそのまま就寝、という次第になってしまいました。疲れまくった一日でしたが、いい思いもしましたよ。
 その1。運動会では出場選手を呼び出すという役割だったんですが、事件は「水の祭典」というゲームで起きました。一升瓶に湯呑でどのチームが早くいっぱいにするか、という単純なゲームなんです。大人30名、子供20名という定員でした。大人は予め選手を決めてあったんで問題なかったんですが、問題は子供。20名の定員のところに50名も集まってしまいました。そこから20名を選ぶなんて酷なことはできませんから、私は「よっしゃ、全員行け!」と言ってしまったんですよ。そうして子供を集めて準備をさせていたら、運動会の責任者が驚いて跳んできました。「賞品は20名分しか無いんだぞ。勝手なことをするな!」と怒られてしまいました。
 これには私も参りました。確かに主催者としては人数分しか賞品は用意していないはず。軽はずみなことをしたかなあ、子供は3チームになったから成績の良かったチームだけに賞品を出す、それとも大人には我慢してもらって子供に廻すかなあ、と思案していたら賞品係の女性が一言「大丈夫ですよ、子供全員の賞品はありますよ」。うれしかったですね。責任者も「それじゃあ」と引き下がってくれました。
 あとで配られた賞品を見たら、シールのような本当に安物と言ってもいいような物だったんですが、それでも子供は喜んでくれました。参加して、何か貰えればいいんですよね。そうやって地域の一員になっていくんだなと、思うとうれしくなりましたよ。それにしても、お名前も存じ上げない(混乱していてお顔が思い出せない)女性に感謝!です。女性はやっぱりエライ!
 その2。(きょうは長くなるな、ゴメン)。反省会と称する呑み会では、私が前回呑み残した地酒「酒田錦」の一升瓶が出てきました。それを幹事が私の前にドン! ありがたく一合だけはいただきましたが、すぐに他の人に廻しました。それに気付いた誰かが、取り返してきて「これはお前んだから隠しておけ!」。これもうれしかったですね。酒呑み冥利に尽きるというものです。もちろん最後の一滴までおいしくいただきました(^^;;


小説集『湖(うみ)の本』44号
「早春・京のちえ」
umi no hon 44
2000.8.31 東京都保谷市 秦恒平氏発行 1900円

 日本ペンクラブ理事で、いわば私の上司にあたる電子メディア対応研究会座長の秦恒平さんからいただきました。『丹波』『もらひ子』と続く出生からの純文章≠ナ、この「早春」は小学校5年から新制中学2年までを主体にして書かれています。新制中学1年は昭和23年のことですから、戦後の民主主義教育のはしりであったわけです。私の生まれる1年前でした。
 純文章≠ノついて、秦さんは「作品の後に」で次のように書いています。
 「虚構でも随筆でもない、むしろ「純文章」という文藝を心掛けていたことは、何度か、以前にも言い置いたところである。」
 随筆にあらず、純文学≠ノあらず、と取ってよいかと思います。その名の通り、日記ではない記憶の再生がなされています。私にも僅かに記憶のある昭和20年代の風景、風俗が表現されて、その中でいかに作家・秦恒平が成長していくかが読み取れて、惹かれて一気に読んでしまいました。京にあった秦少年の眼が、東北の片田舎で成長した私の眼になっていくのも純文章≠フ力と思いました。
 「早春」をすべて紹介するわけにはいきませんが、同時に載せられていた「京のちえ」というエッセイを全文紹介します。昨年11月5日の「京都新聞特集版」の巻頭言として収められたものです。

 京のちえ −巻頭言−
 子どもの頃、「あんたに褒めてもろても嬉しゅうはございまへん」と腹立たしげに憮然としている大人を初めて見て、人を褒めるのにも、相手により事柄により「斟酌」が必要らしいと、深く愕いた覚えがある。「人の善をも(ウカとは)いふべからず。いわむや、その悪をや。このこころ、もつとも神妙」と昔の本に書かれている。智慧である。
 「口の利きよも知らんやっちゃ」とやられるようなことこそ、京都で穏便に暮らすには、最も危険な、言われてはならない、常平生の心がけであった。京の智慧は、王朝の昔から今日もなお、慎重な、慎重すぎるほどの「口の利きよ」を以て、「よう出来たお人」の美徳の方に数えている。
 「ほんまのことは言わんでもええの。言わんでも、分かる人には分かるのん。分からん人には、なんぼ言うても分からへんのえ」と、新制中学の頃、一年上の人から諄々と叱られた。十五になるやならずの、この女子生徒の言葉を「是」と分かる人でないと、なかなか京都では暮らして行けない。いちはなだって、声高に「正論」を吐きたがる「斟酌」欠けた人間は、京都のものでも京都から出て行かねばならない、例えば私のように。
 京都の人は「ちがう」と言わない。智慧のある人ほど「ちがうのと、ちがうやろか」と、それさえ言葉よりも、かすかな顔色や態度で見せる。「おうち、どう思わはる」と、先に先に向こうサンの考えや思いを誘い出して、それでも「そやなあ」「そやろか」と自分の言葉はせいぜい呑みこんでしまう。危うくなると「ほな、また」とか「よろしゅうに」と帰って行く。じつは意見もあり考えも決まっていて、外へは極力出さずじまいにしたいのだ、深い智慧だ。
 この「口の利きよ」の基本の智慧は、いわゆる永田町の論理に濃厚に引き継がれている。裏返せば、京都とは、好むと好まざるとに関わらず久しく久しい「政治的な」都市であった。うかと口を利いてはならず、優れて役立つアイマイ語を磨きに磨き上げ、日本を引っ張ってきた。京都は、衣食住その他、歴史的には原料原産の都市ではない。優れて加工と洗練の都市として、内外文化の中継点であり、「京風」という高度の趣味趣向の発信地だった。オリジナルの智慧はいつの時代にも「京ことば」だったし、正しくは「口の利きよ」「ものは言いよう」であった。この基本の智慧を、卑下するどころか、もっともっと新世紀の利器として磨いた方がいい。

 このエッセイには秦恒平という作家の真髄が表現されていると思います。秦作品をそれほど多く拝見しているわけではありませんので、今まで読んだ作品の中の集大成のようなエッセイ、と言ったら過言かもしれませんが、ああ、ここにこの作家の秘密があったんだな、と私は深く感じました。しかし、それにしても京都とは恐ろしいところですね。北海道生まれ、東北・東海育ち、現住所・神奈川の関東人の私にはとても太刀打ちできない京都の歴史を思い知らされました。



 
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