きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
nasu
新井克彦画「茄子」




2000.9.8(金)

 日本ペンクラブの電子メディア対応研究会がありました。今回はアンケートの分析です。9/14に言論表現委員会が主催するシンポジウム「一億総表現者の時代-ネット社会でわたしはわたし≠どう表現するか-」があります。それにタイアップして電メ研ではEメールを持っている会員にアンケートを行いました。アンケート内容は、文筆家・編集者の集団ですから、Eメールやインターネットを自分の表現にどう利用しているか、ということが主体になりました。180名ほどにアンケートを出し、44名が回答していますから、まあまあかな。その分析を行いました。
 回答の全文、電メ研座長のまとめはペンクラブのHPに公表されています。興味をお持ちの方はそちらをご覧になってください。メールを持っている会員へのアンケートですから、当然でしょうが好意的な意見が多かったですね。中にはびっくりするくらい独創的な回答もありますよ。


日本現代女流詩人叢書U第36集
『大野理維子詩集』
oono riiko shisyu
1986.10.1 東京都文京区 芸風書院刊 1300円

 夢の重さ

夢の重さが 計れますか
幼い児らが枕を並べて
高熱に喘
(あえ)いだ夜
健やかに成人させてと
神仏に願
(がん)をかけ
夢を断
(た)ったわたし

それでも稲妻閃く夜は
嵐の朝は
豪雨の中を駆けめぐりたい
見えぬ何かに
敢然と立ち向かいたいと
ペンを握っては たちまち
後悔に身を焼いた
手具脛
(てぐすね)引いて待ってたように
神罰・仏罰が降
(くだ)るのだから……

身は八つ裂きになってもよい
愛し児たちは
健やかにと願って
夫と子どもたちに
惜しみなく費消した年月

長い間眠っていた
色褪せたノートの束
子どもたちが成人して
制約から解き放たれた今
もう 自由に飛べるはず

でも その夢の重さに
圧し潰されそうなわたし

 巻頭の作品です。過去の「三冊より選んだ作品と、新作をまとめました。」とあとがきにあります。いつ頃の作品か判りませんが「夢の重さ」という感覚はいいですね。私の勤務する会社で昔、文芸部というサークルがあって、そこで「夢の位置」という作品を書いた先輩がいます。その時もいい言葉だなと思って、覚えていたんですが、それに匹敵する言葉ですね。
 ここでの「夢」は、希望という意味の夢ですが、眠りの中の夢ととらえてもよさそうです。その方が夢≠ェあっていいんですが、ちょっと無理かな。「長い間眠っていた/色褪せたノートの束」に鍵はありそうです。


大野理維子氏詩集『シクラメン』
shikuramen
1998.4.30 東京都中央区 朝日新聞出版サービス刊 2500円

 晴れ男

六十七年間 傘要らずの晴れ男だった
老いはじめ 少し薄くなった頭頂から
後光が射しているようだった
クリスマスに息子夫婦に招かれ
プレゼントを貰って喜んだが
翌朝には 眠ったまま仏になっていた

葬式も法事も 雨一滴降らなかった
二月初めの納骨に天気予報は雨だったが
まるで四月の陽気 霊園に春一番が吹いた
黒いスエーデン石の墓の下
晴れ男の骨箱は 頑として入らない
生涯 弱音を吐かなかった男が
最後の抵抗をしていた

----蓋を上向きにしよう
丸い蓋を裏返し 息子の掌が
骨をなだめるように そっと押さえた
砂まじりの強風に 大箱の線香の
点火には 未練な時間が流れて
線香の煙が 濛濛となびいた

----おじいちゃん一人でかわいそう
朝から泣いていた八歳の孫の合掌に
墓前で撮った写真には光が輝いて
晴れ男が顔を出していた
仏様になった自覚は まだないらしい

 亡くなったご主人へのレクイエムですが、人柄がよくでています。「プレゼントを貰って喜んだ」「最後の抵抗をしていた」「晴れ男が顔を出していた」「仏様になった自覚は まだないらしい」などのフレーズから、明るい性格で家族中から愛された様子を垣間見ることができますね。
 それにしても「おじいちゃん一人でかわいそう」と言うお孫さんの声には泣かされます。「丸い蓋を裏返し 息子の掌が/骨をなだめるように そっと押さえた」という息子さんの存在。親子孫と続く気持ちのいい家族の肖像を見ているようです。



 
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