きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
nasu
新井克彦画「茄子」




2000.9.14(木)

 日本ペンクラブ言論表現委員会主催のシンポジウムが市ヶ谷の私学会館でありました。「一億総表現者の時代−ネット社会でわたしは“わたし”をどう表現するか−」というタイトルのもと、5人のパネラーとのパネルディスカッションです。主にプロの作家がインターネットでも金がとれるか、という話になりましたが、私などのような金を稼げない者でもインターネットを通じて表現できる、という点には一応落ち着きました。
 シンポに先立ち、わが電子メディア対応研究会もタイアップして、Eメールを持っている会員にアンケートを行いました。その報告を秦座長が行い、これは受けてましたね。インターネットは老齢者・障害者にとっては「電子の杖」になる、E-YangよりむしろE-Oldの時代である、という秦座長のアンケート分析は会場の納得を充分得ました。パネラーのお一人、弁護士の牧野二郎氏などはわざわざ「電子の杖という言葉に感激した。さすがは作家の言葉」とわざわざ発言したほどでした。
 秦座長の発言は全文がペンクラブのHPに掲載されています。表紙の「電子メディア対応研究会」からお入りください。

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左より猪瀬直樹、三田誠広、西垣通、牧野二郎、元木昌彦の各氏

 わが電メ研からは秦恒平座長を始め城塚朋和、森秀樹、中川五郎の各委員と私が参加、パネラーとして西垣通氏、二次会には内田保廣委員も駆けつけてくれました。二次会は近くの居酒屋で言論表現委員会と電メ研の懇親会のような形になり、猪瀬さん、三田さんもおいでになりました。
 秦さんの言葉に感激した牧野弁護士は日本ペンクラブに入会することになり、なんと電メ研のメンバーにもなってくれるとのこと。電メ研の議論の中では、法律問題になるとたじろぐことがしばしばでしたが、これからは強力な助っ人を得て、議論が深まるだろうと思います。にこやかないい方です。何より髭がいい(^^;;


相良蒼生夫氏詩集『羽蟻』
ha ari
2000.9.20 東京都東村山市
書肆青樹社刊 2400円+税

 遠い詩人

俺はとうに詩を捨てたよ
食えない詩にかかわるなと 女房はわめく子は泣きやがる
昔 俺のひろう活字で威勢のいい詩を
勝利とか 暁とか 昂揚とかを並べたな
文選工なんて遺物よ コンピュータ時代で半失業の身
いまは印刷屋の運転手 酷い低賃金
中高年の定年間際 女房も働いてさ

おい 思い切りインターを歌おう
あのとき誰がいまの生活を予測したものかよ
頑強で真面目に働けば今頃は安泰に思えたね
中高年の安給与 新説姥捨て山さ
おお ブルジュアジー 資本主義に義憤の鉄槌を
ああ酔ったか この俺の頑迷な鈍い頭にこそ鉄槌をか

この周辺も変わったね
ノンポリ学生が茶髪の女づれ
居酒屋風も案外とするじゃないか
君は変わりなく詩をやっているんだろ
Nを知っているだろう
偶然出合って 文筆で独立したらしい
実業家詩人Tの庇護で雑誌やってて
右翼的志向だとぬかしおった
Nの奴 俺に詩を書いているかって 見舞だとかいって
三万円くれたよ 何の見舞だか貰っといた
奴とも古い仲間だ 俺は昔から貧乏でカンパうけていたっけな

今日は気持よく酔えた 久しぶりだもんな
君はまだ詩 書いてんだろ
訣れるときは いつもこの橋の上だったな君は右 俺は左
奥さんによろしくな 元気でいろよ
健康でさえあれば食うだけの稼ぎはできるさ

いや 俺だって同じさ
明日を拾い喰いするために
ちょっと恰好づけするのも生活の条件さ
背広姿は貧しい詩神と同行するために着けている制服だよ

 いいタイトルですね。タイトルが作品の全てを表わしていて、見本のようなタイトルと思います。作者は私より一回り上の方と思いましたから、60年安保の経験者と想像します。時代背景がよく判って、作品の深みを感じることができます。
 実は私も文選工の経験をしています。中・高校生のアルバイトで4年ほど印刷所に行きました。活字との最初の出合いです。確かに「俺のひろう活字で」本が出来上がるというのは、最高の体験でした。今でもたまに活字の詩集に出合ったりするとうれしくなります。しかし、世は「コンピュータ時代」。「半失業の身」になる詩人を考えないわけにはいきません。
 昔から詩人は貧乏、と決まっていたんですが、「実業家詩人T」がいることも事実。要はどういう作品を残せるか、だけなんでしょうが、それにしても考えさせられました。


新哲実氏詩集・思索詩
『形象
(かたち)なきものを』
katachi nakimono o
2000.9.9 東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊 2000円+税

彫れ 形象(かたち)なきものを
すべての「なぜ」を突き抜けた
(まこと)の沈黙を求め
夜に向かって
ただひたすらに

聞け 耳すませて
かつて声であったものを
数多
(あまた)の眼によってかき消され
だがいつの日か 再び
声とならなければならないものを

描け 死ぬことのない歌を
最早光を待たずとも
あらゆる美しいものの
輝く姿をその中に
見出すことのできる歌を

弾け 心が見るものを
すべての時を遡る
(まこと)の明るさを求め
夜から更なる夜に向かって
ただ一心に

 一篇の詩が一冊になっているという、凄い詩集です。上に紹介したのは、その最初の部分です。これから始まる長い作品の冒頭にふさわしいものと言えるでしょう。詩・音楽を中心とした作者の芸術論を具体化した詩集とも言えます。詩集のタイトルに「思索詩」と入れたのも作者の心意気の現われと受け取れます。
 作品の内容は紹介した冒頭の部分でもお判りのように、非常に観念的で自由なものです。正直なところ具体化、事象の分析を常に求められている職業の私などには理解できない部分が多くあります。しかしそれは私の個人的な問題であって、作品に罪はありません。むしろこのように自由な精神で作品化できる作者を羨ましくさえ思います。本来の詩のひとつの「形象
(かたち)」であり、それからずいぶん遠ざかってしまった我が身を哀れに思います。そういう意味でも考えさせられる詩集でした。



 
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