きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
nasu
新井克彦画「茄子」




2000.9.20(水)

 東京本社に出張してきました。会議そのものは順調でした。18時までかかる予定が17時半で終わったんですから…。会議のあとは例によって呑み会。青山で呑みましたがツラかった。実は月曜日から呑みっぱなしなんです。月曜はPTA、火曜は営業マンとの呑み会。午前中は二日酔い気味で、酒が抜けたたなあ、と思ったら夕方から呑み会。その繰り返しで、ずーっと酔ってるようです(^^;;
 酒の量を抑えて呑めばいいんでしょうが、そこがイジキタナイところで、ついつい限度まで呑んでしまいます。セルフコントロールはできている方だと思っているんですが、こと酒になると、どうも…。そういうのを「できている」とは言わないんでしょうけどね。


藤見紀雄氏詩集『もったなや』
mottanaya
2000.9.20 東京都千代田区 沖積舎刊 2500円+税

 反優等生

敗戦の年に國民學校に入学した
三四年生の頃には「民主々義」という言葉が流行った
「民主々義」の反対語は
身分や階級で上下や優劣を差別する「封建主義」
五六年生の頃には「民主々義」とは
人間関係が「対等な原理」だと思っていた

中学生になって「民主々義」とは
「多数決の原理」だと教えられた
「あれっ!ほんとにそうかな」と疑問をもった
もし民主々義が「多数決の原理」なら
日本の軍事政権もドイツのナチ政権も
「民主々義」だと言うことができる

教科書を墨で塗り潰した後からは
教えられた漢字がいつの間にか変わった
教えられた送り仮名もいつの間にか変わった
学校で教えられることに疑問を持つ習慣がついた
民主々義を「多数決の原理」と定義することには
どうしても納得することができなかった

たしかに投票や採決は「多数決の原理」に違いない
しかし「多数決の原理」こそが民主々義だとは
どうしても納得することができなかった
八割方の人達に支持されたとしても
ファシズムを「民主々義」だと言うことはできない
学校が教えることを飲み込めないので反優等生になった

 悪く言えば理屈っぽい、良く言うと理論的な、とでも言うのでしょうか。ご覧になった方の中では反発する人もいるかもしれませんね。作者は私より一回り上の方のようで、あとがきに「詩の特性のひとつは、散文に比べればずっと少ない文字によってメッセージを発信できることであろうし、もう一つの特性は散文より視覚に捕らえ易い文字の配列ができることであろう。わたくしは詩のもつこのふたつの特性に期待して、これまでどうしても受信されることのなかったメッセージを、改めて詩の特性に託して発信してみようと考えたのであった」とあります。
 この発言にも、詩はメッセージではない、というような反発が当然あろうと思います。しかし、私はその考え方もいいのではないかと思っています。詩は芸術の根源で、様々な手法やアプローチがあって当然だと思うからです。基本的には何の制約もないのが芸術ですから。
 という私なりの前提にたってこの作品を拝見すると、教えられることが多くあります。特に「多数決の原理」ですね。作者も疑問に思っているように私にも疑問なんです。そして、この作品に接して気づきました。「多数決の原理」の前提条件は、「人間関係が「対等な原理」」であることなんでしょうね。この前提がつけば「日本の軍事政権もドイツのナチ政権も/「民主々義」だと言うことができ」なくなるわけです。
 人間関係が対等であることによって成り立つ多数決の原理、というのは実に難しい設問だと思います。対等であること、の定義と具体化が難しいと思います。しかし、それを日々やらないと本当の民主主義は成り立たないでしょう。もうちょっと言い方を変えないといけないかなあ。人間として個々の関係が対等であること、でしょうか。そうでないと組織上の役職としての上下関係を無視してしまいますから…。
 ちょっと長くなりますが、もう少し続けます。タイトルに注目してください。「反優等生」です。一般的には優等生の反対語は劣等生です。なぜ作者は劣等性というタイトルにしなかったか。おそらく「人間関係が「対等な原理」」の具体化だろうと思います。人間としては対等であるから、劣等生ではなく「反」優等生なんです。単に優等生の反対側にいるだけ、という意味でしょうね。いい視点をしていると思います。
 第一詩集だそうです。詩作を始めて4年半だそうです。新しいタイプの詩人の誕生だと思います。詩だけでなく現実の社会、人間に対して真正面から見据えています。若輩の私が言うのもおかしいのですが、これからを充分に期待できる方だと思います。


鬼の会会報『鬼』342号
oni 342
2000.11.1 奈良県奈良市
鬼仙洞盧山・中村光行氏発行 年会費1万円

 美貌人
「荒城の月」の土井晩翠はツチイだが、世間ではドイだった。いくらツチイといっても改まらない。とうとう本人も諦めた。児童文学の小川未明はビメイだが、読者はミメイと読んだ。出版社が問い合わせると、ミメイで好いと言った。未がビか、ミかは未亡人では問題だ。古くはびぼうじん、とした新明解国語辞典は親切。ビボウジンは美貌人に思える。漢音ではビになり、呉音ではミになるのだ。

 我田引水で申し訳ありません。土井晩翠翁は日本詩人クラブの初代名誉会員でした。小川未明は、現在、同クラブで理事を一緒にやっている小川英晴さんのおじいさんです。こうやって「鬼のしきたり」の中に何気なく出てくる歴史上の人物が、わがクラブと少なからぬ関係があることに感慨があります。先日も原史郎さんから創立当時の日本詩人クラブの様子を聴きましたが、つくづく凄いところだなと思います。会員の一人として名を辱めないようにと、改めて思いました。
 さて、本論。美貌人、いい言葉ですね。私と友達つき合いをしてもらっている女性が、相次いで未亡人になってしまいました。同年代ですから、まだ若い。確かに美貌人≠ニ呼ぶにふさわしい人たちばかりです。まだ、ご主人を亡くしたばかりですから変なことは言えませんが、しばらくしたら美貌人と呼ぼうかと思います。その時に、ニコッと笑ってもらえるように早くなればいいなと思っています。うちの嫁さんもそう思っているかもしれませんね。



 
   [ トップページ ]  [ 9月の部屋へ戻る ]