きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
nasu
新井克彦画「茄子」




2000.9.27(水)

 『山脈』の原稿締め切りが近づいています。9/30です。筧代表宅に9/30までに届くには、きょう書いて明朝投函しないと間に合いません。同人には締め切り厳守を言っている立場ですから、私が遅れたんでは恰好が悪い。詩一編と「山脈後記」という散文。さて、何を書くやら。書くことはいっぱいあるはずなんですが、いざとなると悩んでしまいますね。いただいた本を紹介しながら頭を働かせていこうと思います。


文芸誌『らぴす』12号
lapis 12
2000.9.20 岡山県岡山市
アルル書店・小野田潮氏発行 700円

 安藤勝章という方の「折れた頁から(10)」というエッセイにおもしろいことが書いてありました。小林秀雄の本の読み方についてです。「彼は本というものを中味が読めればそれで十分と思っていたから、かさばる表紙をいつも引き千切って持ち歩いていたという」。
 丸谷才一についても「丸谷才一も読みたい本を手にしたら、まずカバーも凾も捨ててしまうとどこかに書いていた」と紹介しています。
 ある人が寄贈された同人雑誌を手にとって「この頁のここがいいんだよ」と言いながら、その頁を破いて他人に渡しているのを目撃したことがありますが、小林秀雄・丸谷才一と同じ心境だったのかもしれませんね。私にはちょっと信じられない光景でしたけど…。
 安藤さんは「残念ながら、僕は本の表紙を引き千切ったり、カバーや凾を捨てることができない。多分、本に対して物としての執着心が強いからなのであろう。」と書いています。これがモノ書きの持っている一般的な感覚だろうと私は思います。当然、私も捨てられません。妹が捨てるという本まで、資料にするからと貰ってくる始末です。
 どちらがいいとか悪いとかいう問題ではなく、本を情報ととるか自分の一部ととるかの違いだろうと思います。情報ならば不要になったら捨てて構わないわけです。そこで連想するのがEメールの扱いです。多くの人は不要になったら削除しているようです。これが私にはできない。個人別のフォルダーを作って、そこに仕舞い込んでいます。なんか、他人様が寄越した手紙を破いて捨てるようで、ついつい保存してしまいます。そういえば手紙も全部保管してありますね。こうなったら、単なる収集癖というのかもしれません。
 本も、紙の本と電子の本の二本立てになりつつあります。本をとっておくという習慣が、この先どうなっていくのやら、そんなことまで考えさせられたエッセイでした。


森下久枝氏詩集『朝顔の時間』
asagao no jikan
2000.8.10 東京都中央区 酣燈社刊 1500円+税

 祈り

朝のやわらかな陽射し
ダイニングルームの窓辺で
コーヒーを飲みながら
庭の沈丁花をみている
寒気のなか健気な花芽
日ごと紅を深め
ほどかれる日も近いだろう

垣根の山茶花の繁みには
つがいの目白がもぐり込み
枝を揺すり 花びらを散らす

ながい会社勤めをやめ
心地よい疲労のなか
午前のひとときを寛いでいる
わたしを育てた娘たちはとうに巣立ち
過ごしてきた濃い時間が
にじむような明るさで胸に満ちてくる

隣の山茶花に飛び移る目白ほどの勇気と
沈丁花の香りや充分な緑に恵まれ
葉のそよぐ内なる林の奥深く
ゆったりと踏み入る旅のはじまり

 森下久枝さんにはもう何年もお会いしていませんが、静かなやさしい方です。11年ぶりの詩集ということで楽しみに拝見しました。おだやかな、他人を許容する方という印象が強く、この作品にもそんな私の思い入れが正しかったフレーズを発見しました。「わたしを育てた娘たち」というフレーズに、この方の本質を見るような思いをします。
 普通は「わたしが育てた」ですよ、親なんですから。それを娘さんに育てられたという森下さんの感覚に敬服します。考えてみればその通りで、自分のことしか考えていない私なんかでも思い至ります。子供の考え方、行動、子供の友達、先生方を含めて、子を通して育てられているのは確かですね。
 「ゆったりと踏み入る旅のはじまり」に対して祈るという作品ですが、花々や小鳥を愛でて過ごす時間を持てるようになったということは素晴らしいことです。それを素直に表現して、まったく嫌味のない作品になるというのは、森下さんのお人柄の現われでしょうね。長い間、お疲れさまでした。詩をいっぱい書いて、ちょっぴり日本詩人クラブのお手伝いもお願いします、って宣伝しちゃいました。



 
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