きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラ カワハギ」 |
2001.1.20(土)
市PTA連絡協議会の研修大会というのがあって、行ってきました。あーぁ、つまんなかった。行って損しちゃいましたよ。メインは講演で、臨床心理士という肩書の講師が「子どもたちの心が見えてまいすか」という演題でした。高所に立ったモノ言い、私にとってはなんら新しい発見のない講演で、寝ちゃいましたよ、思いっきり(^^;;
質問のコーナーもありましたが、誰も質問せず。結局、予定より30分早く終わってくれましたので、それはまあ、ヨシとするか。
○水谷清氏訳/クロード・ロワ詩集 『時の縁りで』 |
2000.11.25 東京都豊島区 舷燈社刊 2000円+税 |
夢
冬 時計の振子は
ぼくの眠りの足音を数える
部屋では夜
ぼくの夢では六月の 真昼だ
桜の木を登る子どもは
木の葉を通して耳にする
いつかは成る老人の呼吸音と
時を織る振子の編物を
枕の暗闇のなかで
六十年の後もよく眠っている人は耳にする
子どもが木の枝を傷つけ
サクランボが草のうえに落ちるのを
一九八二年八月二十五日
クロード・ロワは1915年パリで生まれています。ナチス・ドイツへの抵抗運動に参加したようです。「クロード・ロワの出自と詩の業績について」という解説には「ドイツの占領から解放期においては、フランスの著名な知識人のひとりとしてその名を挙げられるようになった」とあります。
紹介した作品は短詩ながら「眠りの足音」「時を織る振子の編物」など優れた詩語を見ることができます。また「サクランボが草のうえに落ちる」音も「夢」の雰囲気をうまく表現していると思います。前出の解説では「二十世紀に生きた、いまなお生き続ける
<愛の詩人>
」と紹介していますが、この作品からもそれは理解できるでしょう。現代フランスの良質な詩人と思います。
○文藝誌『セコイア』25号 |
2000.12.31
埼玉県狭山市 セコイア社・松本建彦氏発行 1000円 |
レールについて/村上泰三
崖を降りて 複線のレールを跨ぐ
近くに見えていたのに
向かいの崖に なかなか辿り着かない
切り通しの傾斜が 急にきつくなる
足場を探しながら登るのだが
手に掴んだ草の根が ずるずると抜けてくる
* * *
人気のない教室に 一人で坐っている
昼なのか 夜なのか 定かできない
黒板の上の壁に 麗々しく貼られた
教育目標と 学級目標
----目標のない人生は 不幸です
いまだに持つことの出来ない
目標という名のレールに
手足を がんじがらめに縛られている
* * *
終電車の行ってしまった
線路を歩いている
枕木との 歩幅が合わない
一本ずつでは 狭すぎるし
一本おきでは 大股すぎるし
* * *
川を越える 鉄橋の枕木を渡っている
遠くから 汽笛が聞えてくる
列車が来たら
枕木にぶら下がろうと思っている
* * *
多くの出会いと 多くの別れを運んだ
廃線のレールが 真赤に錆びている
撤去費用が足りず 打ち棄てられて
やがて 伸びた雑草が
廃駅とレールを 覆い尽くすだろう
小説の構成のようにきちんとした作品だと思います。特に2、3連目の「教育目標と 学級目標」が出てきたことは見事としか言いようがありません。この連によって作品の広がりや普遍性が確固としたものになったと言えましょう。作品を心事片々に終らせない技術を学ぶことができます。
最終連の「廃線」と「廃駅」も考えさせられます。私たちの人生そのものを暗示していると取ってもいいと思います。
小説では上岡義一氏の「仁淀川」が印象的です。終戦後、しばらくして高知の僻地に左遷させられた教員組合の支部長と地元の人たちとの交歓が、渕の主「赤鯉」を釣り上げる場面と縦横に縫い上げられて、惹きつけられました。ひとつの時代を感じさせられました。
○季刊詩誌『竜骨』39号 |
2000.12.25
東京都武蔵野市 竜骨の会・西山壽氏発行 700円 |
挨拶/高橋次夫
喪中に付き新世紀のご挨拶を
申し述べるわけにはまいりません
いくさ
この百年の 殺し合いの戦 誰のためだったのでしょうか
どのようなことばで 誰が命令したのでしょうか
その命令を挑発したのは どこの誰だったのでしょうか
その煽りで 父は凍りついた土の下に死にました
皮と骨だけの屍になって 姉が死にました
マァマと 母を呼ぶことばを知らぬままに 甥が死にました
泣き声を立てるとなと洞窟の岩場で首を絞められ 赤ン坊が殺されました
人の業が発射した黒い光に皮を焼かれ骨を溶かされて30万人が殺されました
エゴから噴き出した狂気のガスで密室に圧し潰され400万人が殺されました
21世紀は 弔旗のように首を垂らし
百年の喪にはいります
21世紀、21世紀と意味もなく浮かれている世間への痛烈な批判と受けとめました。確かに「百年の 殺し合い」があったなら「百年の喪にはい」るのは当然かもしれません。私も浮かれていたとは思いませんが、心のどこかに新世紀≠ニいう意識があったのは事実です。この作品を拝見して、そんな甘さも許されないと思いました。「百年の喪」にふさわしい21世紀を考えなければいけないと反省させられた次第です。
しかし、具体的に何かの行動をせよ、とこの作品は言っているわけではないと思います。そういう気持で21世紀を過ごせ、と言っているのだと解釈しています。よい示唆を与えてもらったと思います。忘れやすい人間への警鐘と受けとめました。
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