きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラ カワハギ」 |
2001.1.26(金)
日本ペンクラブの電子メディア対応研究会がありました。今回は電子出版における出版契約書について議論を行いました。紙の本の出版契約もかなりあいまいな部分が多いようで、Eブックなどのインターネット配本が近い将来一般化することが考えられる中で、著者に不利にならない契約とは何か、という観点です。従来は出版社と著者の間で、お互いを尊重するという暗黙の了解があったのですが、電子出版には従来の出版社と違って、電子通信分野の異業種が参入してくることが考えられ、極端な著者に不利な契約も出始めているため、契約の注意点をまとめようというものです。我々の任期が切れる4月までには、会員に提言できるものにしようと思っています。
いろいろ重箱の隅までつついて議論しましたが、結論としてはかなりアバウトでよいのではないか、ということになりました。おおまかな注意点を提言するに留めようと思います。電子出版はまだまだ始まったばかりで、あまり細かいことを強調しても数ヵ月で状況が変わる可能性があります。そんな段階でガッチリ固めてしまうのは、どうも意味がないようです。このあと2月、3月と議論を重ねて、4月にはそこそこのものができると思います。その時点で皆さまのご意見も伺いたいと思っています。
○詩誌『かたばみ』4号 |
2001.1.15
埼玉県八潮市 かたばみ社・呉美代氏発行 非売品 |
木椅子/水木
澪
この世から
出て行ってしまった
あなたの木椅子に
二月の夕陽が
座っている
立ったまま
寂寥を掬っている私は
誰?
呉さんが指導する、詩を始めたばかりの人たちの詩誌のようです。この作品は小品ながら詩へのひたむきさが伝わってきて、佳作だと思います。「二月の夕陽が/座っている」という視点、それに対して「私」は「立ったまま」というのも、詩に動きがあって惹きつけられます。しかし「寂寥」という言葉はどうでしょうかね。「寂寥」を具象化した方がよかったかもしれません。編集後記では「休日に作品をもち寄って、互いに作品の研究をし合っております」とありますから、そんなお話も出ているのかもしれません。影ながら応援しています。
○月刊詩誌『柵』170号 |
2001.1.20
大阪府豊能郡能勢町 詩画工房・志賀英夫氏発行 600円 |
機械体操をする洗濯もの/小島禄琅
小春日和の物干竿で
妻が機械体操をやっている
風に吹かれて前後に躯をゆすぶる
----横で
ぼくも上半身だけの機械体操をやる
ぼくは年寄りだから いっそう動作がにぶい
蜜蜂がきて
機械体操に余念ない夫婦のまわりを廻る
三十年ほどまえ
物干竿の鉄棒には家族みんながぶらさがった
その影は庭土の面へ落ちて
きまってゆっくり揺れた
何かを話し合っているようでもあった
小声で歌っていることもあった
年月が流れ
鉄棒にぶらさがっていた子供たちは
一人ずつ去った
消えたのは合計三人
いまは夫婦だけだ
妻のワンピースはむかしから地味だったが
いまも地味である
ぼくのシャツはむかしもいまも白っぽい
そのワンピースとシャツが
昨日も今日も仲よく機械体操を続ける
だがやがてそれは孤影と化し
悄然の色を深めるだろう
----晩秋
雲が来て庭を覆い
ゆっくりと行き過ぎる
平和の手形を捺すようにして
洗濯ものを「機械体操」と見る発想はおもしろいと思いました。「ぼくも上半身だけの機械体操をやる」というフレーズも具体的で、場面をはっきりと認識できますね。そして、最初は五人分の「機械体操」だったのが二人になり、「だがやがてそれは孤影と化」すだろうという、人生の無常にも触れて、非常に奥の深い作品だとも思います。
実は、ここまでならある程度の書き手なら書けるのではないかと思います。しかし、最終連は書けませんね。少なくとも、私はそこまで至りませんでした。「平和の手形を捺す」という表現がこの作品を高度なものにしていると言えるのではないでしょうか。「孤影と化」すことも含めて「平和の手形」であると私は受けとめましたが、そう言い切れるまでにはどれほどの年輪を重ねなければならないのか、作者の大きな懐を感じた次第です。
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