きょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画:ムラサメ モンガラ




2001.10.6(
)

 日本詩人クラブの第2回現代詩研究会が神楽坂エミールでありました。「伊東静雄−詩法と課題」と題する講演を溝口章が行い、質疑応答の時間も長くとった研究会でした。伊東静雄は私も好きな詩人のひとりで、高校の教科書に載っていた「わがひとに与ふる哀歌」が最初の出会いでした。しかし、誰に対してもそうであるように、特別に研究するということもなく今に至っています。ですから、レジメで示された戦争讃歌の詩には驚きましたね。讃歌というより、純真な気持で書いたというように説明され、その通りだと思います。
 あの時代の文学者が置かれていた立場を考えると、今の私たちも無縁ではないと思います。テロ報復戦争は、まさに踏絵になりつつあるように感じています。まさか大政翼賛会や文学報国会のようなものが出てくるとは思っていませんが、万一そうなった場合、私はどうするのだろうと考えています。そんなことまで考えさせられた研究会でした。

011006

 溝口さんとコーディネーターの橋浦さんの写真は詩人クラブのHPに載せましたので、そちらをご覧になってください。ここでは会場風景を紹介します。一応の定員を30名としていますが、今回もそれを上回ったようです。
 二次会はもちろん行って、時間があったので溝口さんを三次会に誘ってしまいました。他に4、5人が加わって研究会の続きをやってしまいましたよ。まじめに机に向って議論するのもいいけど、やっぱり酒呑みながらの方が私の性に合っているようです。溝口さんは東海道新幹線でお帰りになるので、それにもつき合ってしまいました。私が降りる小田原まで、ずーっとしゃべっていたと思います。溝口さんに指摘されるまで、小田原に着いたのも判らなかったほどです。溝口さんにはご迷惑だったかもしれませんが、いい一日でした。



詩誌Sayon・U3号
sayon2 3
2001.10.20 東京都三鷹市
さよんの会・なべくらますみ氏発行 500円

 恥ずかしながら拙詩を掲載させていただいております。このHPは自分の作品を売り込むことを目的に運営しているわけではないので紹介はやめますが、載せていただきありがとうございました。原稿料の無い商業誌に出稿するより緊張しましたね。浄財で運営する同人誌に書かせてもらえるのが一番うれしいし、一番の修行になると思っています。で、出来は? うーん、ちょっと突っ込みが甘いなと反省しています。精進します。

 アンドラ/多賀恭子

やせっぽちの男の子が
通りすがりに私に触り
大きな声で何かを言った
振り返って
私も笑って手を振った

人ひとりいない
朝の教会
こんな時を
あなたは私にくれたのでしよう?
十字を切って
端の椅子にすわっていた
なぜだか涙が止まらなかった
はぐれた人とはすぐに会える
今はそんな気持ちになれる

掃除していたおばさんが
軽くうなずいて
小さな声で私に言った
オルヴォワール
私の教会

 舞台はスペインのようです。「オルヴォワール」の正確な意味が判りませんがおはよう≠ニいうような軽い挨拶でしょうか。それよりも大事なのは第2連だと思います。「あなた」とは誰? どうして「なぜだか涙が止まらなかった」の? 「はぐれた人」って誰? と、散文的な疑問は出てきますが、そんなことはどうでもいいことだとすぐに気づきます。それは「やせっぽちの男の子が/通りすがりに私に触」ったり「掃除していたおばさんが/軽くうなずい」たりする場にいれば、自分の本質に帰ることができると確信するからです。
 実は、この作品はかなり長いと感じていました。少なくとも4連か5連あると思っていたのです。上述で連を数える場面になって、たった3連しかないことが判りました。正直なところ驚きましたね。少ない言葉で大きなイメージを抱かせる作品と言えます。場面設定と心象がうまく作用している作品ではないかなと思います。



詩誌『蠻』127号
ban 127
2001.10.5 埼玉県所沢市
秦健一郎氏発行 非売品

 時の組曲/山浦正嗣

開け放った裏窓から吹き込んだ風が
残り少ない頁をめくっていきました

葉を落とした裸木を見つめながら
こわれていくものをただ見ているだけでした
気がついて手を出してみるのですが
いつも一歩違いで出ていってしまったバスの
後ろ姿を追い掛けているようで
あきらめてしまうのです

自分の気持ちもひとの気持ちも
わかっているつもりなのですが
つかもうとすると
気まぐれな流れ雲のように
指の間からこぼれてしまいます

ひとが死んでいったというのに
枯れた花が花瓶にささったまま
月日だけがすべり落ちていきました
花が散ったあとの桜並木を歩いていても
誰も欄漫な春を思い出しません

予定がなくなった時間は
廃線の錆びた線路を
とぼとぼと歩いていきます

このまま止まっていて欲しい時間は
なぜ花を散らすように急いでいってしまうのでしょう
さっさといってしまえと思う時間は
重くなってなかなか腰をあげてくれません
時間は悲しいところが居心地がいいのでしょう

ひとは花に花はひとになれませんが
お互いを咲かせようとする心は持っています
ひとはひとに勝手に色をつけて
傷つけてしまうことが多いのです

ひとは汚れると
貯めたものが多くなって
死ねなくなります

時には終わりという頁はありませんが
ひとはもっといいことがあるだろうと
頁を増やそうとします

どの道を通って来ても
最後の頁は同じなのだと思いますが
秋が終わりかけて
ひとの悲しさが少し分かってきました

ひとが死んでいっても
今日も空には雲が浮いていて
新しい時間が広がっていきました

部屋の窓は
いつも開け放ったままでいます

 時間に対する感覚が鋭いと思います。「予定がなくなった時間」「このまま止まっていて欲しい時間」「さっさといってしまえと思う時間」という言葉は、それに対する「廃線の錆びた線路」「花を散らすように急いでいってしまう」「重くなってなかなか腰をあげてくれません」という言葉とうまく対応していて、ここだけでも詩的世界を構築していると言っていいでしょう。特に「時間は悲しいところが居心地がいいのでしょう」という視点は重要だと思います。
 何でもない言葉の組合せで、普通に感じている感情を表現する。しかし表出されたものは、私たちが今まで感じていたものより一歩深いところを表現しているのです。「時間は悲しいところが居心地がいいのでしょう」という言葉は、大げさに言えば詩史にも残るものだと思います。前後をもう少し整理する必要を感じている作品ですが、それを相殺しても余りある1行と言えましょう。



江川英親氏詩集『平穏無事』
heion buji
2001.9.25 東京都新宿区 思潮社刊 2200円+税

 

蚤はつぶすべきである
このところ滅多にたじろがないが
おる!
たしかに血を吮
(す)うやつが
つぶしてもつぶしても
一匹
眠れぬ夜にたじろぎやがる
はや凸眼鏡のいる爪先
(つまさき)
跳ね寸前のそいつを易々とはつまめない
尤もどうでもいいような痛痒でしかないのだけれど
のがしてはならぬ
蚤はつぶすべきである

やっと捉えてつぶしても
ピチ
血ばしり音のみみっちさ
つまり それ
おれの血の音である

 なつかしい光景に出会いました。若い人には経験がないと思いますが、昔は蚤がいたんです。それをプチと潰すことが日課になっていました。もう40年以上も昔の話です。それが作品で再現されて、時代の変化を感じています。
 詩集の中では代表的な作品とは言い難いのですが、惹かれました。なつかしいということと同時に、小動物に愛着を感じているらしい著者の、面目がこの作品にも表出していると思います。「つまり それ/おれの血の音である」と言うときの著者の気持を推し量ると、殺さざるを得ない人間の業にまで行き着いてしまいます。「血ばしり音のみみっちさ」という巧みな表現は、その懺悔の裏返しなのではないかと感じています。
 「古事記」を題材にした作品が半分を占め、かなり意欲的な詩集と思います。



詩誌『饗宴』29号
kyouen 29
2001 札幌市中央区
林檎屋・瀬戸正昭氏発行 500円

 入江/村田 譲

ゆびの輪郭から
時間の難破船が
すべりゆく
抱きとめようと
ひろげた
両の腕
(かいな)
海の入口へと
よびかえす
ささやき

 小品ですが、なかなか意味が深い作品だと思います。「時間の難破船」という言葉も刺激的ですし、それが「海の入口へと/よびかえす」という表現とも相まって、独特の世界を見せてくれています。「入江」というタイトルも奏効していると言えましょう。波のイメージともダブって、無限の時間の感覚を想起されますね。「ささやき」と一言、最後に置いたのもちょっと心憎いところです。



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