きょうはこんな日でした【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画:ムラサメ モンガラ |
2001.10.13(土)
娘の通う中学校で、恒例の文化活動発表会がありました。演劇で娘が主役をやるらしく、数日前から担任の先生が「詩人のお父さんには是非見てもらいたい、感激するよ」と言っていたらしくて、強制的に見させられた気もします。劇を見終わったあとには別の先生から「どうでした?感激したでしょう?」と声をかけられて、何なんだ、この学校は!?
と思いましたね^_^;
女の先生から「あなたは歴史が好きなのね、私も大好きなのよ、そのうち歴史の話をしましょうね」と勘違いされた劣等生が、発奮して歴史の最高得点を取るが、皆からカンニングを疑われて、憤慨して家出をしてしまうというストーリーです。家出先で出会ったダンスグループの生き方に感動して、再び教室に戻ってメデタシ、メデタシというものですが、確かに構成も演技も褒められていいと思います。詩人のホームレスも出てきて、どうもこの辺を先生方は私に見せたかったようです。
しかし、私はある一点にだけこだわってしまいました。ダンスグループの目標はニューヨークのホールだというのです。今の時期にニューヨークはないだろう、誰もニューヨークなんかに行きたいとは思わない、パリでもローマでも別の都市に変更できなかったのかな、という思いが勝ってしまいました。
あとから聞いてみると、どうも感動≠フ質が違うようです。上演の直前までまともに発声すらできなかった中学生が見事に舞台を仕上げた、という点に先生方の感動≠ヘ向いていたようです。その裏話を聞いて、私も納得しましたけどね。
写真は劇の一部。件のダンサーが知り合いの占い師に悩みを相談している場面です。ちなみにこのダンサーが私の娘です。身長は165cmを越えていると思います。舞台に立つと見事なプロポーションで、大きく見えました。わが娘ながら、見事に育ったなと、これはまた別の意味で感動しましたね。
演劇が終ったところで、大急ぎで神楽坂に向いました。日本詩人クラブの10月例会、本日のメインは松永伍一氏の講演「白秋と杢太郎」です。松永さんとは2000年1月15日に行われた和田文雄氏詩集『村』の出版記念会でお会いしています。風貌と、作品から受ける人柄に魅了されていましたから、どうしても例会には行きたかったのです。
講演も良かったですね。与謝野鉄幹の『明星』の同人であった北原白秋と木下杢太郎という友人同士が、最後は童謡・短歌に進んで大成する白秋と、詩よりもキリシタン史研究へと傾いていく杢太郎というように別の道を歩むことになるのは何故か。白秋と同郷の松永さんは、それらをどう見てきたか。一冊の本になってもおかしくない講演で、実に清々しい気分になりました。
写真は松永伍一さん。71歳におなりだそうですが、実にいいお顔だと思います。いっさいの結社に属さず、ただ文学にのみ従事する、というのも羨ましいですね。文学とは本来関係のない、結社の雑事に明け暮れる私などには羨望以外の何ものでもありません。まあ、松永さんの才能の足元にも及ばない身ですから、せめて身体を張って文学に貢献する、というところですか^_^;
例会の後は講師を交えての懇談会というのが習慣ですが、残念ながら松永さんは次の仕事が18時からあるとのことで、お帰りになってしまいました。この懇親会で聞ける話が講演とは違っておもしろいので、楽しみにしていたんですが、残念でした。プロの作家はお忙しいようです。
○香山雅代氏エッセイ集『露の拍子』 |
2000.9.30 東京都東村山市 書肆青樹社刊 3000円+税 |
能に造詣の深い方で、浅学の私にはとても追いつけない評論が続きます。詩集・エッセイ集への批評も日本古来からの文藝に裏打ちされたもので、非常に高いレベルでの評だと思いました。敗戦時12歳であったご自身の記憶、阪神淡路大震災の体験など身につまされるエッセイも、著者の人間形成に重要な意味があることが判り、食い入るように拝見しました。純度の高いエッセイ集と言えましょう。
渉る
空を 虹が わたる
滝を 鳥が わたる
活断層を ゆっくりわたっていった なにものか
懸け橋を 虞(*)が わたっている
わたるとき ひとは 透視する
瞬時の捨身(いのち)を
わたったものより
わたられたものを
記億する
穂に つもる
空の跫
*虞…聖人の徳に感じて現われるという不思議な霊獣
書中、2編ほどの詩があり、紹介したのはエッセイ集の最後の締めともいうべき位置に置かれた作品です。阪神淡路大震災を扱った作品ですが、第2連には衝撃を受けました。体験した者のみが発せられる言葉と思います。「虞…不思議な霊獣」といい、この集の最後を飾るにふさわしい作品だと感じました。
○詩誌『Messier』16号 |
2000.12.25
兵庫県西宮市 香山雅代氏発行 非売品 |
龍首水瓶/香山雅代
ミュルラ
没薬の香りに 包まれる 円らな肌
ヨハネは 雷の門前で呟く
天にとどけられたのか 轟きわたる ひかりの束
龍首水瓶は 覆る
光と 電鳴が さだかではない 輪郭をのこ
し 水瓶に 封じこめられる そのとき
闇のなかを
龍首が 擡げられ 一輪の白牡丹が 浮きたっている
「没薬」とはもつやく≠ニ読み、辞書によると「南アラビア、アビシニア地方原産のカンラン科の小高木の樹皮から浸出する樹脂。ミイラ製造など古くから薫香料としたほか、健胃剤・通経剤にも用いる。また、この植物自体をさすこともある。ミイラ。」(Microsoft/Shogakukan
Bookshelf Basic)だそうです。すべてがただ一点、「一輪の白牡丹」に向けられている作品だと思います。非常に格調が高く、かつイメージの鮮やかな作品と言えます。特に第2連の「龍首水瓶」が「覆る」様は、ああ、こういう視点があったのかと愕然としています。発想力、表現力ともに第一級の作品だと思います。
詩誌『Messier』17号 |
2001.6.17
兵庫県西宮市 香山雅代氏発行 非売品 |
往きがかり/大堀タミノ
ブロック塀から 庭木がはみ出し
高い枝の先に夏のみかんが
ぶら下っている
いつも通る道ではない場所の
あたりの様子は違っていても
見上げる空は変わらず
ひろがりと
計り知れない乖離が
言葉を拒んで透き通っている
中ぞらで
何かを耐えているような球体の
目にまぶしいほどに鮮かな色が
いち早く果実の全体を まるごと占有してしまい
別の感応を与えたかもしれぬ
液体の重み その緻密な組成
やがて内側へと向う
鎮められた成熟への願望に想いを移そうにも
往きがかり
駅が見えてくるだろう次の
曲り角あたりに到るまでは
私のなかの水晶体は ぶ厚な
オレンジ色に染められたままだ
「空」の「計り知れない乖離が/言葉を拒んで透き通っている」という表現に惹かれました。「夏のみかん」によって「私のなかの水晶体は ぶ厚な/オレンジ色に染められたままだ」という視点も好ましく思っています。それが単なる「往きがかり」の風景だというのですから、相当鋭い感性だと思います。何気ない風景を詩人の感性で鋭く描いた秀作と言えましょう。
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