きょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画:ムラサメ モンガラ




2001.10.14(
)

 神奈川県足柄上郡地区1市5町の青少年指導員・補導員の30名ほどの懇親会があって、行ってきました。場所は南足柄市郷土資料館という所です。第3回目とのことで、新しく始めたもののようです。所轄警察署の生活安全課長の報告もあって、なかなか意義のある集会だなと思いました。地域の青少年犯罪状況なんて、普段の生活ではなかなか聞く機会がありませんからね。私の家の近くにある寺の副住職が、暴走族の少年に注意して、金属バットでなぐられて死亡するという事件が7月にあったものの、それ以外は青少年犯罪としては平穏なようです。
 郷土資料館は「丸太の森」というひと山を有料公園にしたような施設の中にあって、地元ながら始めて行ったことになります。昼食はバーベキューで、郷土資料館からバーベキュー広場まで30分ほど森の中を歩きました。久しぶりに森林浴ができてうれしかったですね。主催者から「お休みのところすみませんね」と声をかけられましたが、思わず「いえいえ、義務を果たしながら楽しめるなんて結構なことですよ」と応えてしまいました。

011014

 写真は「足柄の古民家」と題された復元農家です。昔の小学校を移築したものもあり、そんな施設も見学しながらバーベキュー会場まで散歩しました。「丸太の森」って、なかなかいい所ですよ。機会があったら訪れてみてください。小田原駅から大雄山線終点の大雄山駅下車、徒歩約30分というところですか。ハイキングのつもりで来るといいでしょう。入園料は400円ほどだったと思います。



藤森重紀氏詩集『凝視感覚』
gyoushi kankaku
2000.5.1 東京都町田市 龍工房刊 2000円+税

 濫觴

ねこやなぎが川原に芽吹くころ
青年になりかかった男が町を出る
根雪のとけ残る県道を
のろのろとおごそかにバスが来る

耕地を売って用意した十万円ばかりの入学金を
母の縫い込んだ胸ポケットにたしかめて
砂塵に目をそぼつかせながらステップを踏む
家が貧しいのに
長男なのに
大学に行きたい
それだけの理由で町を出る
これから先
何をみようとしているのか
何をしようとしているのか
だれに約束したわけでもなく

トランクには
夜汽車の長い時間と
唯一の縁故を頼るために
数冊の文庫本と郷里のみやげものを入れ
バスの後部座席に腰を降ろし
きのうまでの少年から
きょう青年になったあかしのように
もういちど革靴の紐をしめ直しながら
ふり向くと
きいろい砂塵の遠くに
母と一番下の妹が
ぽつんと立っていた

 詩集の最後の作品です。いい詩だな、と思いながらも浅学にして「濫觴」という言葉が判りませんでした。辞書によるとらんしょう≠ニ読み「孔子が子路を戒めたことば。揚子江も源にさかのぼれば觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流であったとの意から。一説に「濫」はあふれる意で、さかずきをあふれさせるほどのわずかな水流をいうとも。細い流れ。流れの源。転じて、物事の始まり。起源。起こり。もと」(Microsoft/Shogakukan Bookshlf Basic)とありました。
 「物事の始まり」と受け取ってよさそうです。「大学に行」くためにバスに乗る場面です。「きのうまでの少年から/きょう青年になったあかしのように/もういちど革靴の紐をしめ直」す仕草に青年の決意が秘められていて、私も30数年前を思い出してしまいました。
 著者略歴によると1944年岩手県生まれとありますから、私より5歳ほど先輩の詩人です。私の年代でさえ世の中に出て行くという意識を持って高校を卒業していますから、5年先輩ならそういう意識がより強かったのではなかったろうかと想像しています。初めての他人の地域、初めての一人暮しに緊張したことを思い出しています。
 最後の3行が故郷を離れる作者の心境を反映していて、思わず胸が熱くなってしまいました。肉親の情の深さを思わずにはいられません。青年の緊張と肉親の惜別の気持がうまく出ていて、いい作品だなと何度も読み返してしまいました。



長津功三良氏詩集『おどろどろ』
odorodoro
2001.10.10 埼玉県狭山市 セコイア社刊 1500円

 われらのむの

われら
(お前たちは)よのむの
いつおおてもさけのほ
がさきになるんじゃけ
ええかげんせ
やだいじなはなしなんかできせんが
わりゃあそ
いうがおそおにでんわしてきて
そのころにゃあめしのまえにもうのんどるいや
のみはじめたらとまりゃあせんけのむまえにいえ
そうはい
がのちょっとそうだんがあるけぇあいたいちゅうても
わしもちいたぁしごとをもっちょるけぇ
そうそうはようはこっちぃもどれんけの
しげちゃんがびーるをいちだーすじゃろぅ
かついでくるころにゃぁかぞくでやさかきょうに
はなみぃいっとったちゅうてきたときにゃあもうふらふらしちょっ
てそりゃあなんにんかでかんぱいするなぁしたが
しょぉベんいっちゃぁあけちけっきょくみなのんじしもうたろ
まさのりくんはにほんしゅうもっちきたなぁええが
ちゃびんでわかしちゃったらけっきょくひとりでのんだろうが
こおちゃんはわいんにほんもっちゃぁきたが
わしんとこのういすきーほとんどあけちしもうたじゃろ
みんなでりょこうへいこうちゅうそうだんなんかできゃぁせんで
こんだぁあんまりのまんれんちゅうをよんでからに
さきぃそうだんしてからにせにゃぁはなしゃあすすまんで
われらぁほんまによぉのむのぉええかげんにしときいゃ
しげちゃんなんかおまぇちいはいてにゅういんしとったちゅうのに
もおあんだけのむんじゃけぇとはいうが
ありゃぁあれでからだがもっとるんじゃけぇしょうがあるまいが
われらぁほんまよぉのむのぉ
しげちゃんとまさのりくんのやりとりきいとっちみぃ
どっちがやといぬしでしゃちょうかわかりゃぁせんで
かねょぉもろおとるほうがいいたいほおだいいいよるんじゃけえ
ええかげんしぃやわれらぁほんまよぉのむのぉ
なんもはなしがすまんうちにもぉまよなかになっちしもぉたで
われらぁええかげんにしときぃや

 タイトルポエムの「おどろおどろ」を始め、「山の上の共同墓地」「やまんぼう」「パンドラの匣」「冬至」「白いノート」「冬至の朝」など紹介したい作品が次々に現れて困ってしまいましたが、やっぱり酒呑みは酒呑みの詩を紹介したいですね。ぜひ一字一字拾いながら読んでもらいたい作品です。山口弁とそこに住む仲間たちの会話がおもしろくて、何度も何度も読み返してしまいました。
 平仮名ばかりなのでちょっと読みづらく、一部漢字にしてはどうかとも考えましたが、読んでいくうちにこれは平仮名の方がいいのだと気付きました。一字一字拾うことで方言に近づき、イントネーションやアクセントも頭に入ってきやすくなるからです。
 それにしても「のみはじめたらとまりゃあせんけ
」も「にほんしゅうもっちきたなぁええが/ちゃびんでわかしちゃったらけっきょくひとりでのんだろうが」も、まるで私自身のことのようで、日頃の行いを反省しています^_^;



季刊詩誌『竜骨』42号
ryukotsu 42
2001.9.25 東京都福生市
村上泰三氏発行 600円

 響き合い/今川 洋

森の中腹の城の中に
ひとり佇んでいる
寂然と歴史のふところにはいっている

天井から吊りさげられた草木染の布
大自然のゆらぎの匂い
壁面の言葉が
いとしげに瞳をむけながら安らいでいる

森から発信されたその言菓
思慮深く 草木染の深々のいのちを
鮮明に発色させながら
更に言葉を染めていく
その時
布がふっと息づいて
詩として言葉を大胆に包み込む

城の中の美術館
歴史を広げながら人々がやってくる
展示された作品の姿に染まりつつ
うずきを秘めたあしたの言葉を胸に
歴史の風景を彩どっていく

来る筈もないひとは やはり来なかった
ただよう透明な詩の糸玉が
あるかなきかの風に解ぐされて
線をひきながら消えていった

それも響き合いの一つかと
ただひとりとなって
静寂の刻
(とき)にくるまれる

 「その時/布がふっと息づいて/詩として言葉を大胆に包み込む」というフレーズで、すごいことを書いているな、大胆な表現だなと思いました。静寂の中にも理知的な言葉が見えて、かなり乾いた抒情があるのかなとも思いました。それはちょっと違うと気付いたのが第5連です。「来る筈もないひとは やはり来なかった」という1行で、作者本来の抒情性を見た思いです。決して乾いてはいないということは「響き合い」というタイトル、最終連にも現れていると思います。巻頭作品ですが、やはり巻頭作品だけのことはあると思いました。



季刊詩誌『裸人』13号
rajin 13
2001.9.10 千葉県佐原市
裸人の会・五喜田正巳氏発行 500円

 書く/秋原秀夫

遠い日に
落ちていた小枝を拾って
地面に書いた
そばに誰かいたようだ

学校の机の引き出しに
石盤と石筆があった
石筆のかたい音が
記憶の底にひびいている

家に帰ると
新聞紙に筆で書いた
書いた上に繰返し書くと
新聞紙が破れた

鉛筆で
わら半紙に書いた
友だちと遊んだこと
親に叱られたことを書いた

はずかしくて言えないことや
いじめられてくやしかったこと
自慢したいことや
実現しそうもない夢を書いた

今も書いている

 「書く」という行為の歴史的な変遷を考えさせられています。「石筆」は私の幼少期にもあったように思います。白い硬い石で、コンクリートの道路や壁に書いた覚えがあります。さすがに「学校の机の引き出しに/石盤と」ともにはありませんでしたけど…。今はパソコンのキーボードを打って、書く代用をさせていますが「実現しそうもない夢を書い」ていることに変りはありませんね。
 「今も書いている」という最終行・最終連が非常に効いていると思います。作者の決意を感じます。詩誌の巻頭にふさわしい作品と言えましょう。



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