きょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画:ムラサメ モンガラ




2001.10.21(
)

 いただいた詩誌・詩集を読んでいると、宅急便がやってきました。何かな?と思って見ると、なんと「越乃寒梅」。「沼津の文化を語る会」というところでご一緒している酒屋さんからのものでした。四合瓶3本セットで、送料込み5000円という値段に惹かれて発注しておいたものです。「越乃寒梅」にもいろいろ種類があって、別撰のセットでしたから、それほど期待はしていなかったんですが、意外とうまかったですね。別撰特有のちょっとした雑味が一口目には感じられましたが、それ以降は無くなってしまいました。あれ?と思ってよくよく見ると、10月18日製造になっていました。なんと、製造3日目の酒だったんですね。酒屋さんの出荷は10月20日ですから、酒屋さんに届いてすぐに送ってくれたことが判ります。やはり製造直後というのはうまいものなんですね。

 「越乃寒梅」は最近では少し安くなってきているようですが、それでもこの値段は市価の半値に近いのではないかと思います。残念ながら特定客向けのセット・値段ですから酒屋さんの名前をお教えするわけにはいきませんけど、石本酒造から直接取り寄せているようです。機会があったら何かの集りに持って行きたい気がしていますが、おそらく無理でしょうね。計算上は6日で無くなります^_^;



秋吉久紀夫氏エッセイ集
『対象への接近』詩論・エッセー文庫14
taisyo eno sekkin
2001.11.1 東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊 1300円+税

 日本詩人クラブでは、詩集賞や新人賞に比べて詩に関する評論や研究・訳詩に対する賞が少ないことを憂慮し、今年から「日本詩人クラブ詩界賞」を設けました。その栄えある第一回詩界賞を編訳詩集『現代シルクロード詩集』で受賞したのが秋吉久紀夫さんです。この本を読んでまず驚いたことに、編・訳にあたっては極力現地調査をしているんですね。中国には1年半も滞在して調査・研究を続けたようです。それらの活動の中から対象となった詩人や地域の状況を、肩の凝らないエッセイとしてまとめた集と言ってよいでしょう。実際には新聞の文化欄や商業誌、大学の会報などに書いたものをまとめたようですが、1966年から2001年にかけてのエッセイで、35年間の軌跡を辿ることができます。
 いくつか知らせたい言葉が出てきますが、その中から次の2点を紹介します。最初は「根っこ持つ言葉の創造--中国の文学運動から--」と題されたエッセイの最後の部分です。

近代中国の文学運動を眺めてみて、痛感するのは、かれらは外から来るものに対して抵抗の場をもっているということであった。その場とは、文化は自らが形成するものという意識と言い換えてよい。
 むろんそれが過度になることも、時として否定できないが、それは近代化に力を入れる現在でも変わることはない。(一九七九・六)>

 中国の、外来文化に対する態度への考察ですが、我々日本人に重要な示唆を与えているように思います。この文章が1979年に書かれて、しかも現在も変わっていないことに驚きます。コンピュータの世界ではOSと呼ばれる基本ソフトをアメリカのマイクロソフト社がほぼ独占し、それが世界標準になっています。しかし、中国だけは国産のOSをあえて使っています。国防上の問題からというのが表向きの理由ですが、実は秋吉さんの指摘のようなものがあるのではないかと思っています。翻って、我が国にも実は国産のOSがあるのです。日本ペンクラブの電子メディア委員会でご一緒している東大の坂村健教授が開発したB-TORONです。しかし、まったく普及していません。「
外から来るものに対して抵抗の場をも」たない国民性に起因しているのかもしれません。
 次は「モザンビークの詩人リリノー・ミカイア」というエッセイの中にありました。なんと1965年に発表された文章です。

<現代の世界の文学を考えた場合、わたしはあたらしく勃興するアジア・アフリカ諸国の文学をぬきにしてはかんがえられなくなっている。過去のながいあいだ、まったく文化果つるところのように考えられていたこの地域に、実に多くの豊かな文化の資源が存在していた事実は、無視することはできない。世界がながいあいだにわたって有力国家といわれる少数国家の文化によって支配されつづけられたことは、あまりにも不当なことであった。
 しかもこの傾向は明治以後の日本に濃く、西欧文化をただ盲目的に、なんらの選択眼も持ち合わせることなく、西欧的なものであればより進んだものだとひたすら考え紹介、研究されて来はしなかっただろうか。わたしはここに日本の文化を絶えず混乱させているひとつの問題点があると考える。>

 またしても我が国の国民性を考えさせられる文章です。もちろん日本人にはいいところがたくさんあって、古来からの伝統文化は世界に誇れるものだと思いますが、何かちょっとズレていると考えるのは私ばかりではないようです。ちょっと論点が外れますが、今回のテロ報復戦争への日本政府の肩入れを見て、特にそう思いました。何もアメリカに尻尾を振る必要はない。テロも駄目、報復戦争もダメとアメリカに正面から言えるのは、平和憲法を持つ日本をおいて他になかったのに、それをしなかった。「なんらの選択眼も持ち合わせ」ていなかったとしか言いようがありません。
 ちょっと長くなりましたが、本当はもっともっと紹介したいところです。秋吉節とも呼ぶべき切れ味の良い文体も魅力です。この本をぜひ読んで、西欧のみならず東洋、東南アジア、アフリカにも眼を向けるきっかけを掴んでほしいと思います。



岡耕秋氏詩集『バウム・テスト』
baum test
2001.8.1 東京都新宿区 土曜美術社出版販売刊 2000円+税

 

豊かに緑の木々に囲まれた
日あたりのよい精神病陳で
若い男がナースに訴えている

僕の声がありません
どうしたらいいのかわかりません
僕は誰の声でも
どんな声でもだすことができます
おなかのなかにある
女の声も男の声も子供の声だって

でも入り乱れる声が
僕をいらだたせます
僕の声だけがないのです
誰かが盗んでしまったのでしょうか

僕はどうすればいいんですか
警察だってもっと真剣に
探してくれると思いますよ

中年のナースがなぐさめている
大丈夫よ
あなたの声はただ眠っているだけなのよ
目を覚ますわよ きっと

 著者は長崎県諫早市在住の医師です。医師として詩人として患者と接した作品、諫早自然保護協会理事長の観点からの作品と、非常に視野の広い人間性を示した詩集と言えますが、何と第一詩集なんですね。著者のお名前は、ずいぶん前から存じ上げていましたが、詩人としての出発は「八七年三月、詩誌「子午線」(入江昭三主宰)に参加し詩作を始める」(中村不二夫氏跋)とありますから、かなり遅かったようです。しかし、豊富な人生経験と多岐に渡る才能が詩集には収められていて、とても第一詩集とは思えないというのが最初の印象でした。
 紹介した作品はある精神病者がモチーフになっていますが、「僕の声がありません」と訴える「若い男」が、実は私たちそのものではないかと思えて惹かれた作品です。私たちは本当に自分の声を持っているのだろうか、その声をちゃんと発しているのだろうかと考えさせられます。今だ70%と言われる小泉内閣への支持率、それに近い数字のテロ報復戦争への支持率を見ると、自分の声をちゃんと持っているのか、と疑わざるを得ないのです。
 それはそれとして、作品の中で救われた思いをするのが最終連です。「あなたの声はただ眠っているだけ」というナースの言葉に、うまい言い方をするなと思うのと同時に、私たちの声も「ただ眠っているだけ」と納得しようとしています。いずれ自分の声を発すべき時は発する、そういう私たちでありたいと思います。著者の意図とは違うのかもしれませんが、そんなことまで考えさせられた作品、詩集でした。



詩とエッセイ誌『千年樹』7号
sennenjyu 7
2001.8.22 長崎県諫早市 岡耕秋氏発行 500円

 名前のない顔/平井廣惠

一枚の画用紙の真ん中あたりを破って穴をあけ
二階の(それ以上なら何階でもよい)窓から夏の景色を見る
白い雲が浮かんでいるだけで
かたくなな心がなんでもなかったように弛み
一つか二つの思い出がよみがえる
大切にしておきたい思い出か
忘れてしまいたい事か
それともずいぶん生きて来たなあと感じるだけかも知れない
残る時聞をけちけち考えず
さらに大きな穴をあけて 顔を出し
名前のない顔となって
風にさらさら
このときちょっぴり
大嫌いな奴も許せるかも

 我が家は平屋なので二階の窓からというのは無理ですが、書斎の窓からやってみました。季節はすでに晩秋。夏の景色は望むべくもないんですけど、それでも「かたくなな心がなんでもなかったように弛」むような気がします。書かれた通りの、こういうバカをやる気持のゆとりがあるんだと^_^;
 この作品では没自我、無我の境地を訴えていると思います。俺が俺が、と競争してきた世代に育った私には、こういう心境はよく理解できるつもりでいます。50を過ぎてようやく理解できそうな気になったのかもしれませんね。心の沁みる作品です。最終行も意味深いですね。そこまでの心境にはまだ至っていませんが、「大嫌いな奴も」時間をかけて「許せる」ようになりたいものだと思っています。小品ながら、最終行がピリリと効いた佳作だと思います。



赤木三郎氏&山本萌氏CD 詩の朗読ライブ--詩の森へ
風は日ぐれて逆行写真となっている
cd kaze wa higurete.jpg
2000.4 東京都江戸川区 ふきのとう書房発行 2200円

 2000年2月6日に保谷市(当時)こもれび小ホールで開催されたライブを録音したものです。実は私は詩人の自作詩朗読というのはあまり好きではありません。下手くそだからです。人前で朗読するなら、ちゃんと発声練習からやってこいよ、と常々思っています。変に感情を込めた朗読も、身の毛がよだつだけで聞くに耐えません。ですから、よほどの因縁がない限りは私も自作詩朗読をやらないようにしています。酔っ払って何となく始まる朗読は、まあ、愛嬌ということで…。

 そんな思いでいますから、このCDが送られてきて、楽しみでした。お二人は6月の日本詩人クラブ千葉大会でお声を聞いていて、プロだと思っていましたから、いい朗読CDだろうと予想されたからです。それは裏切られませんでした。発声もきちんとしていて、発音も感情の抑制も第一級です。自作詩朗読とはこうあるべきだという見本です。朗読とは、苦労して獲得するものだと知らされますね。朗読に携わる人は、ぜひ聞いた方がいい。こういうレベルを聴衆は期待しているんです。

 専門的には知りませんが、お二人の声の質も似ているようで、安心して聴けます。居間にいる嫁さんと娘も聞きつけて書斎にやってきました。しばらく聞き入っていましたよ。私が声をかけた訳でもなく、大音響で聴いていたわけでもないんですが、人を引き付けるものがあるということでしょう。本当はこのHPでも音声を流したいところですが、著作権の問題もあるし技術的にも大変なんで止めますけど、聞いてもらいたいCDです。



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