きょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画:ムラサメ モンガラ




2001.10.27(
)

 同人誌『山脈』の例会が横浜・野毛でありました。ちょっと体調が悪くて、駄目だったら途中で引き返そうと思いながら出かけたんですけど、なんとかもちました。109号の合評会でもありましたから、どうしても行きたいと思っていたので、桜木町の駅に着いたときはホッとしましたよ。
 そんな思いまでして行ったんですけど、私の作品の評判は悪かったですね。新しい試みとして、自分の仕事を書こうと決めて、「技師」という作品を発表しています。同じタイトルで50年も前に、故・山田今次さんが書いていて、いい作品なんです。それが念頭にあったのは事実です。山田さんに及ばないまでも、2001年の技師をフィクションで書きました。神の領域と、私の小学1年生の頃と三つ巴で構成しましたけど、やはり無理があったようです。30行ほどでは書き切れなかったなと思います。その10倍は必要だったかもしれません。
 109号全体としては、文句なしで良かったのは4編ほどですかね。極端に悪い作品はなかったんですが、詰めの甘い作品が多かったように思います。いかに行間で語らせるか、モノで語らせるか、その視点が重要だとつくづく思った次第です。



木島始氏著『ぼくらのペガサス』
bokura no pegasus
2001.10.15 東京都文京区 創風社刊 1300円+税

 ダイトルの『ぼくらのペガサス』は1966年に理論社から出した本と同じだそうです。しかし、中身も組み立て方もちがっているそうです。天馬が原爆実験の影響で落ちてきたという内容で、1966年当時の世界状況が背景にありますが、今でも基本的な状況は変っていないわけですから、そのまま現代にあてはめても読むことができます。いちおう童話という分類に入る本ですけど、そこは詩人の童話、散文詩として読んでもおもしろいですね。
 長編の「ぼくらのペガサス」の他に詩が3編、童話が4編、エッセイが2編ありました。それらは子供向けに書かれていますが大人が読んでも鑑賞に耐える作品ばかりです。特にエッセイ「十五歳の分かれ道」は旧制高校受験を控えた著者の心理分析が成されていて、木島始研究には重要な作品だと思います。中学生に読んでもらいたい、そして大人にも読んでもらいたい一冊です。



木島始氏著『飛ぶ声をおぼえる』
tobu koe wo oboeru
2001.10.15 東京都文京区 創風社刊 1300円+税

 前出の『ぼくらのペガサス』と兄弟のような本と言えるでしょう。こちらには「飛ぶ声をおぼえる」という作品はなく、読者は全体を読んで鳥の声を聞く耳、鳥の声を覚える必要性を感じるという具合になっています。中心となる「マヨイノもりの五つのむかしばなし」という童話が圧巻です。ヒフミ村でたった一人帯刀を許されたケチでいじわるな「ゴロベエ」と子供たちの関わりがおもしろく、鳥語を理解するようになった「ヤエ」がポイントを締めています。当然、現代にも関わってくる童話で、やはり大人にも読んでもらたいですね。
 こちらは詩がちょっと多く、8編載っていました。「ぬけみち」や「つまりそのう」などは全編紹介したいほどですが、著作権を考えて我慢しています。「つまりそのう」には最終連で「きまりかえるのには/がんがんがんばるのがきまり」というフレーズが出てきますけど、小学校高学年や中学生には読んでもらいたい詩ですね。学校関係の皆さんがこの文章をお読みになっていたら、ぜひ学校図書館でお求めになることを薦めます。



松尾静明氏詩集
『方言詩 わが 標準語』
waga hyoujungo
2001.11.11 広島市東区 三宝社刊 2100円

 詩集『都会の畑』で本年度の第34回日本詩人クラブ賞を受賞した著者よりいただきました。広島市在住で、広島県芸備地方の方言を採取して作り上げた詩集です。同封されていた添え文の中に「方言詩と銘打ちながら、箴言・言葉遊び・評論・反語・研究・翻訳・風刺、さまざまな性格のものになってしまった」という一節があります。この詩集の性格を知る上での重要なキーワードと言えましょう。その一端を紹介します。

 さんしょう魚

わしゃあ さんしょう魚が好きじゃ

さんしょう魚の あの
        
(たまらない)
七億年の無口が こたえられん

七億年の無愛想が こたえられん
(つぶれた)
へちゃげたような
(おっくう)
たいぎいような
(それでも)      (太い)しょうね
へでも びくともせん ごつい性根をした顔ぁ
(沈み込んでいる)(わたしを)
しけとるときの わしゅう
      
(耐えさせて)
なんとのう もたせてくれるんじゃ それに
(生きかたというものも)   (教えて)
生きかたぁゆうもんものう 勉強させてくれる

さんしょう魚は
     

わしにこう言うんで

「しゃべるだけ のどが かわくもんよ

 とくに

 じぶんのことを しゃべった後はのう」と

 ルビがなくてもかなり理解できる作品ではないかと思います。方言詩とは言え、詩であることには変りはなく、詩としての鑑賞に耐えられるかどうかもポイントになりますが、それをも十分にクリアーしている作品です。特に最後のさんしょう魚の言葉がいいですね。詩作上の重要な示唆ともとれます。方言の魅力も感じられ、朗読したい作品です。芸備の人たちがこれを朗読したらどんな感じになるのか、そんな興味も起こさせました。



詩誌『地平線』30号
chiheisen 30
2001.7.30 東京都足立区
銀嶺舎・丸山勝久氏発行 600円

 終点まで/たにみちお

電車がカーブにさしかかって大きく揺れた。瞬間少女の体の重みが私
の肩にもたれかかった。
こういうときはそっと突き放せばいいのだろうか。少女の健康そうな
寝息が愛くるしかった。まさかわざとぶつかっておいて、何よエッチ
なんてドラマにあるようなことにはならないだろう。
電車はもう一揺れして少女は反対側に傾いた。ちょっびり残念である。

私はやはりエッチなのかもしれない。さっきまで肩にあった少女の温
もりを楽しんでいる。
向い側の女性はしどけない眠りでその隣の中年の男性は芯から疲れた
ように額にしわを寄せて眠っている。

あちこちに疲れが溜まっている日本人である。
リストラされる理由が無いのにポイ捨てされてしまう日本人である。
出口の無い未来に楽観的な日本人である。
時々訳の分からない殺意に苛まれる日本人である。
不合理や不条理を嘆くだけの日本人である。

電車が鉄橋を渡る音に変わった。窓の外に広がる灯火は道化者の晩餐
に違いない。このまま何処までも走り続けたいという幻想がかすめる。
眠っていた少女がぱっと立上り、向い側の女性や男性がばつわるそう
に目を覚ましてあたりを見回した。
慣習的、諦観的、常識的日常の中へそれぞれが散っていった。
次ぎは終点である。
オリオンがひときわ光芒を放って空に貼り付いていた。
今夜も私は眠れそうもない

 第2連と第3連は、ちょうど頁の切れ目になっていてつながっているようにも見えました。おそらくここは連が分れるだろうと思い、分けた次第です。間違っていたら訂正します。しかしそれにしても第3連は重要なポイントですね。これだけ「日本人である」を連発されると、グッときてしまいます。作品としても同じ言葉が続いているのに無理のない連で、作者の力量に驚かされます。
 何気ない、どこにでもある車内の風景ですが、それを日本人全体に押し広げているところに魅力を感じます。最終行の「今夜も私は眠れそうもない」というフレーズも、作中人物の個人的なものとは受け取れず、日本全体を考えてのことと思えて、作中人物の人柄まで推察してしまいます。それはとりもなおさず、この作品を作った詩人の人柄でもありますが…。巻頭になるだけの作品だと思いました。



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