きょうはこんな日でした【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画:ムラサメ モンガラ |
2001.10.31(水)
社内教育で小田原の研修施設に行っていました。半年に1度、4日間コースでやっている研修の最終日です。この日が一番キツくて、昨年は20時までかかってしまいました。工場で起きるトラブルの解決能力を増強しようというものですが、最終日は講習生の実務課題を検討します。新任のインストラクターではちょっと無理なところもありますので、アドバイザーの私の出番も多くなってしまいました。
しかし、それにしても工学部出身の講習生ですから、かなりポイントを掴んでいましたね。高卒の現場のオペレーターさんとはやはり違いを感じます。それでも思考の迷路にはまり込んでしまうという、人間のある種の弱さを見せられてしまいます。専門化すればするほど、その傾向は強くなるように思います。じゃあ、どうすればいいの?という質問がありましたので、次のように答えました。
「常識と経験」なんです。自然現象のほとんどは私たちの知っている常識で説明できます。研究部門は実はそうはいかないんですが、技術部門にはあてはまる考え方だと思います。常識力を鍛えること。そして経験を積むこと。経験も科学分野だけでなく、音楽や絵画・文学などの芸術分野にも接する経験も持つこと。そんな解説をしました。本当は文学をもっと読めよと言ってやりたかったんですが、我田引水になるといけないんで控えましたけどね^_^; それにしても、いわゆる頭のいい、理解の早い若い連中と一緒にいると楽しいです。実際に起きているトラブルを検討するわけですから、疲れるのは当り前ですけど、心地よい疲れでした。
○季刊詩誌『楽市』42号 |
2001.10.1
大阪府八尾市 楽市舎編集・創元社発行 1000円 |
晩秋/司
茜
ふらり
いいえ 無性に
春日の森の中を歩いています
森のたしかな息遣いと生臭い鹿糞の匂いの中を
歩いています
とどこからか声が立ち上がってきます
フイーヨー フィヨー フイョー ヨーーー
あれは たしか
角を切られた雄鹿のおたけび
今日の私には
ネクタイを容赦なく外されたひとの
叫び声に聞こえます
チュイーン チュイーン チュイー ーン
と鳴く声
あれは たしか
帰ってこない子をさがす母さん鹿の声
今日の私には
身に浸みわたります
ふらり
いいえ あえぎながら
三笠山 山頂まで来てしまいました
生い茂っている芒のなかで
暮れていくあわいに浮かぶ大仏殿の鴟尾をみています
ひんやりとした風が渡っていきます
「茜 母さんも さみしかったよ」
ああ
私の母のまんまるい声
ひんやり
耳許をかすめていきます
古都の晩秋の様子と「母」の姿がうまく表現されていると思います。鹿の鳴き声にも変化があって、よく知らない私などには新鮮に映ります。気をつけて見ると文字の大きさも変化があり、工夫した様子を窺い知ることができました。「ネクタイを容赦なく外されたひと」とは、リストラされた人と受け取ってもよいのかもしれません。「角を切られた雄鹿」とうまく呼応していますね。
何と言っても「私の母のまんまるい声」というフレーズが効いていると思います。この一言で人格を全て言い表していると言っても過言ではないでしょう。表現の力を感じさせる作品だと思いました。
○坂井のぶこ氏詩集 漉林叢書14 『きたうらさんの ぽとす』 |
2001.11.15 東京都足立区 漉林書房刊 1500円+税 |
坂井さんのお名前は『漉林』と『見せもの小屋』で存じ上げていて、この詩集にも載っている「あいすることもあいされることも」という作品は記憶にありました。工場労働者の立場に立った作品と思っていましたが、ようやくこの詩集で全貌をつかまえることができました。「あいこ」という名の語り手が見て、感じて、というスタイルだったんですね。1編の作品でもこの詩人の良さは判りますが、こうやって1冊の詩集で13編の同じテーマの作品を拝見すると、今までボヤーとしかつかまえていなかったものがクリアーになって、妙にうれしくなりました。
きたうらさんの ぽとす
ベるとのわきのまどぎわに
きたうらさんは ぽとす をのこしてゆきました
いまはわたしがまいにちみずをやっています
さんがつです
ぽとす もはるです
つるをのばしてあたらしいはをいっぱいつけます
きたうらさんはいったんです
もしもわたしがおやすみしたら あいこちやん
おみずをあげてちようだいね
って
きたうらさんはかえりません
にどとらいんにはつきません
かわりにじゆうきゆうさいのゆみこちやんが
まいあさわたしににっとわらっておはようっていいます
きたうらさんはいったんです
この ぽとす のおかあさんのおかあさんの そのまた
おかあさんのおかあさん とおいとおいそせんは
きっとがいこくのもりにしぜんにはえていて
それをにんげんがかってにとってきてしまったんだから
おみずをわすれたらかわいそうだよ
と
まいあさみずをやっています
ぽとす はきっとおもっています
きたうらさんがいるみたいだって
この ぽとす はきたうらさんとわたしとでみずをやり
こうじょうのせいさんらいんいちばんのみんなが
たいくつなときやつらいとき
めがいたくってしんどいときに
ちらっちらっとみるみどりです
紹介した詩は詩集のタイトルにもなっている作品です。詩集の全体を把握するには最も適した作品だと思います。そうではなくて、ひとつの作品として見ても優れていると思います。亡くなった「きたうらさん」の「ぽとす」への考え方など、私たちが忘れていたものを教えてくれていると思います。それを「あいこちゃん」が「ちらっちらっとみるみどりです」と表現するときの、「きたうらさん」や「こうじょうのせいさんらいんいちばんのみんな」への親愛の気持を思うと、胸が熱くなるものを感じます。あとがきで作者は、架空の出来事、架空の人物と断っていますが、人間の深い部分に光をあてている詩集だと思います。
○詩と評論・隔月刊『漉林』104号 |
2001.12.1
東京都足立区 漉林書房・田川紀久雄氏発行 800円+税 |
それでおしまい/貞松瑩子
どれだけ詫びれば済むのでしょう
わたしの思いが
人と違っているからと
悲しむ人に
掛ける言葉のひとひらが
胸につかえて発せない
一つの生命が消える時
何はさて置きお葬いには行かねばならない
けれど 病気のわたくしは
人が死んでもお葬いには行かれない
わたしには
死は安らかなあの世への引越し
ただそれだけ
わたくし一人 死んだといって
世の中 何にも変わりはしない
ありがとうよ
眠ったままに冷たくなった
愛犬ミルキー そんなふうに
或る朝 ふっと 死ねたらいいな
子供よ 係よ よくお聞き
仕事はそのまま続けなさい
勉強もみんな その日 その時に
どこが違っておりましよう
たった一つ リビングに
わたしの椅子が空いただけ
それでおしまい
私事で恐縮ですが、貞松さんとは長いつき合いです。私が10代の頃、それこそ学生服を着ていた頃に出会ったのではないかと思います。もう30年も前のことです。詩集もほとんど拝見してきました。そんなつもりでこの作品を読んで、貞松さんもずいぶん変ったなと感じたのが第一印象です。
達観してきたのかな、とも思います。「それでおしまい」なんてあっさりした表現は今までは無かったように記憶しています。諦念ではなく、捨て鉢でもなく、達観であると感じました。今までも、在るものは在るがままにと表現してきたように思いますが、それとも違った、もうひとつ上にいる言葉ではないでしょうか。うまく言い表せませんが…。
かつて貞松さんを称して「出来の悪いオフクロ」と言ってきた私ですが、この作品からはそんな戯言を一蹴されてしまう気配を感じます。敬愛する先輩詩人が、少しは足元に近づいたかと思ったのに、やっぱり先に行ってしまっている、そんな悔しさも感じた作品です。
○詩誌『掌』123号 |
2001.11.1
横浜市青葉区 掌詩人グループ・志崎純氏発行 非売品 |
無言館/堀井
勉
語り部は
戦没画学生たちの遺作
闇の闇から 底の底から
伝わる
確かなメッセージ
無念と言えば無念だが
どの作にも言い訳はない
散り際の美学
ご存知とは思いますが「無言館」というのは長野県にある「戦没画学生たちの」美術館です。私はまだ行ったことがありません。一度行きたいものだと思っていました。しかし、最近はあまり行く気がしなくなりました。マスコミにも取り上げられ、多くの詩人たちの「無言館」を題材にした作品を見るにつけ、天邪鬼の私は、なんだか行く気が無くなってしまったのです。
紹介した作品を拝見してまず思ったのは、失礼ながら、なんだ、また無言館か、というものでした。しかし、最終連でハッとしました。「どの作にも言い訳はない」というフレーズです。かわいそうだ、とか、無残だ、という発想で書かれた作品に多く接した私には新鮮な驚きでした。もちろん作者も他の詩人と同じような思いをしたのだろうと推察しますが、第2連で淡々と館内を述べ、最終連のこの視点。他の誰もが書くことができなかった言葉だと思います。ここに惹かれました。
そして今は再び、行ってみたいと思っています。行って「言い訳はない」作品に接してみたい欲求に駆られています。他の誰がどんな観方をしようが、自分は自分の観方をすればいいのだと気付きました。小品ですが、言葉の力を感じさせられた作品です。
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