きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2001.11.3(土)
日本詩人クラブでは今年度から新たに「現代詩研究会」を立上げました。今日はその第3回目で、作品研究会となりました。佐久間隆史、三田洋の両氏が講師になり、会員・会友から提出された13編の作品について詳細な研究が行われました。私は担当理事という立場での出席ですから、作品を提出する必要はなかったんですけど、少なかったしょうがないから出すつもりで用意しておきました。でも、そんな心配は必要ないほど量も熱気もありましたね。
会場風景 |
でも、質という面ではどうかな? 半数はかなりのレベルの作品と思いましたが、残り半数は詰めが甘い、一人よがりという感じを否めませんでしたね、正直なところは。なかに50過ぎ、60歳近い方の作品があって、非常に観念的、紋切り型の作品で悩んでしまったものがありました。今までどんな人生を歩んできたのか、本当に人間性をも疑ってしまうような作品でした。でも参加者は真剣になって、なぜ観念的になるのか、本人の話も聞きながら議論してきました。
そして最後に本人がポツリ。「やっぱり17歳の時の作品は駄目ね」。ええっ! 17歳の作品だって!? 冗談じゃないですよ。60近い本人を目の前にして、本人に何とかいい作品になるようにみんな真剣に話し合ってきたというのに、17歳の時の作品なんか出すなよ! 何のために一番長い時間を使って討論してきたのか。カッと頭にきましたね。その場では言わなかったけど、二次会の席ではちゃんと抗議しておきました。皆さんも作品を出す時は、参加者のことも考えて出してくださいね。17歳の作品でもいいけど、最初にちゃんと断ってください。
まあ、そんな場面もありましたけど、全体としてはうまくいったと思います。特に講師のお二人は事前に作品を十分読んできて、適切なアドバイスをしてくれました。お礼申し上げます。
○詩と批評誌『POETICA』30号 |
2001.10.20 東京都豊島区 中島登氏発行 500円 |
ジュネーブ協定/三浦真理子
幼いころすこしも気づきませんでした
昼に月が出ていたなんて
地に近くでばかり遊ぶ私には
白い空にかかる白い月は
気の遠くなるほど遠い存在でした
金髪のセルロイド人形を相手に
ご飯よ
お口を開けて あーんと
セルロイド人形は少しも食ベてくれないのです
私の口を開けてまでして誘うのに
食ベてはくれません
もうこれ以上何が欲しいの
私はみなしご児になってもいいとさえ思います
痛いほどの空腹に涙するけがなければ
あのやわらかな土の小道が好きだから
ここに置いていかれても構いません
セルロイド人形はもっとそしてなにが食ベたいのですか
からっぽに似た白い西洋皿の
みえないステーキ
口を開けても開けても噛んでも噛んでも
お腹の底が温まらないのは
狂いはじめたこの大地の哀しみのせい
昼の月にやっと気づきはじめたこのごろです
火星へ行くなんて
この作品の重要なポイント、「ジュネーブ協定」について調べてみました。「1954年のジュネーブ会議で成立したインドシナ戦争休戦に関する協定および宣言。7月21日調印。(Microsoft/Shogakukan
Bookshlf Basic)」とあります。どうもこれとは違うようですので関連項目も調べてみました。ジュネーブ会議≠ナ見ると、
1.1863〜64年、ジュネーブで開かれた国際赤十字会議。この結果、戦地の傷病者に対する平等な救済、救護施設の中立などを定めたジュネーブ条約が成立。
2.1954年4月26日〜7月21日、ジュネーブで開かれた朝鮮の統一とインドシナ休戦に関する国際会議。参加国はアメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国のほか関係諸国。朝鮮問題は米ソの意見が合わず6月15日に討議打切り、インドシナ問題は7月21日に休戦協定(ジュネーブ協定)を調印して境界線(北緯17度)を定め、監視委員会を設置した。
3.1955年7月にジュネーブで開かれたアメリカ、イギリス、ソ連、フランス四か国の巨頭会談。ヨーロッパの安全保障、軍縮、東西関係などを討議した。
いずれも前出辞書によります。どうも「2.」を念頭に置いた作品のようですね。そして、1950年代、60年代のことではなく現在に通用する作品だと思います。「昼の月にやっと気づきはじめたこのごろです」のに、それにしても「火星へ行くなんて」信じられないことだ、という思いが伝わってきます。「幼いころ」からの連続した時間も感じます。タイトルに魅せられた作品です。
○個人詩誌『等深線』7号 |
2001.8.14 横浜市旭区 中島悦子氏発行 非売品 |
急行
東海大学前からは、東海大学の学生が乗ってくる。
東京学芸大学前からは、東京学芸の学生が乗って
くる。そうだろ、そうにきまってるだろ、しつ
こく聞く男。
急行は止まりませんから、と苦しまぎれに答える
と、どちらにも急行は止まるという。
さっき、蛇骨原という駅を通ってきました。じゃ、
そこからは、蛇の骨が乗ってきたわけですね、と
私がいうと、男はすわった目をかろうじてむけて、
そうだという。
いするぎ
じゃ、石動からは、重たい石が、青土からはまっ
青の土がなだれこんで、列車のなかに、ずいぶん
とりっぱな墓ができそうではありませんか。
墓はいたるところにできやがるから、急行で通り
すぎないと生きていけないだろうこのやろう。
知らぬまにいやな顔をしてこちらを見ていた東海
大学の学生カップル二組は降りてしまい、車内は
静かになる。
男は眠っている。どれほどの墓をすっとばして眠
りつづけるのか、知ったことではないが。
私は私の墓で降りる。
急行の停車駅と墓との関係がおもしろい作品ですね。特に最終連の「私は私の墓で降りる。」というのがいい。自分の降りる駅は自分が死ぬ場所だという発想に惹かれます。そうやって生きて、死んでいくのかと思うとちょっぴり淋しくもなりますが、まあ、人生なんて「墓はいたるところにできやがる」程度なのかもしれません。「急行で通りすぎないと生きていけないだろう」という「男」の言葉もおもしろいと思いました。
○詩誌『梢』27号 |
2001.10.20 東京都西東京市 宮崎由紀氏発行 300円 |
あたらしい教科書/日高のぼる
本屋で本を買った
店を出ると
ほこりっぽい風が吹いてきて
本は手のなかでぐったりしている
活宇は色を失い
言葉は過去を見ていた
本屋に戻りもういらないから
金を返してくれというと
「お客さん、古本は困ります」という
いま買ったばかりじゃないかというと
店の主はキョトンとして
「この本を買われたのは
五○年以上も前ではありませんか」
古本といわれ見ると
ボロボロにすりきれた教科書を手にしていた
中を見るとどのぺージも墨が塗られ
墨の線のあいだから
朕が見えかくれしていた
この作品はもちろん扶桑社のあたらしい歴史教科書≠フことを書いているんだと思います。件の教科書について書かれた作品は多くありますが、この作品が一番でしょう。直接そのものを書かない、遠まわしな言い方でも読者はすぐに判る、それが社会批判を書く際の鉄則だと思います。詩の比喩に全く配慮しない作品が多い中で、この作品にめぐり合ってうれしくなりましたね。
社会批評に詩人に与えられた使命のひとつだと思っています。しかし、それはあくまでも詩という芸術の上に成り立っていなければなりません。詩を意識しないのなら散文で批評すべきでしょう。この作品は芸術という観点でも優れていると思います。全体の比喩、部分的な比喩など学ぶべきことの多い作品と言えましょう。
○アンソロジー『千葉県詩集』第34集 |
2001.10.27 千葉県館山市 千葉県詩人クラブ・諫川正臣氏発行 非売品 |
154名の参加があったと編集後記にありました。千葉県詩壇の隆盛を考える当然の数字かもしれませんね。全国組織の日本詩人クラブが昨年出版した、創立50周年記念アンソロジーでさえ461名の参加ですから、それを考えるとすごい参加者だと思います。ここでは、おそらく千葉詩壇の最長老であろうと思われる、元日本詩人クラブ会長寺田弘氏の作品を、敬意を込めて紹介させていただきます。
惜別/寺田 弘
声をころして生きている
声をしのんで生きてきた
明滅するのは風
いのちの闇 カゴ
それはつめたく籠にひそみ
闇のなかを訪ねてきた
この冷徹なもの
関西の能勢から
ながい 旅路を飛んできて
明滅する死者との交信のように
挨拶をした
テレビで特別攻撃隊貝の最期を見た
二十年六月六日
知覧飛行場近くの食堂で
宮川三郎軍曹は出撃する前夜
母親代りの鳥浜トメに誓ったという
「明日の夜 必ず帰ってきます」と
約束の時刻一匹のホタルが飛んできた
軍曹のいのちが冷たく燃えていた
籠のなかのいのちも
つぎつぎと消えていった
三週間たった夜
あかりは二つになった
昨年亡くなった二人の妹の
最後の別れのまばたきのように
声はなく
蛍のいのちは籠のなかで
朝のひかりに消えていた。
的外れな感想にもならないことを書くのはやめましょう。寺田詩の世界を堪能していただけば、それで良いと思います。私も久しぶりに寺田さんの作品を拝見して、うれしく思っています。
*諫川氏の指摘により私の誤植「借別」を「惜別」に訂正。また諫川氏を通じての寺田氏の依頼により「八月六日」を「六月六日」に、「少尉」を「軍曹」に訂正。2001.11.18
村山記
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