きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科




2001.11.6(
)

 同人誌『山脈』の月報「山脈通信」11月号をようやく作り終えました。今回は12月に予定されている合宿の詳細案内を載せなければいけなかったので、本当はもう少し早く出したかったのですが、なかなかそうもいきません。毎月10日前に出すことを目標にしていますので、それが守れただけでもヨシとするしかありませんね。1日30時間あれば嬉しいんですけどね^_^;



たかとう匡子氏詩集『水嵐』
suiran
2001.11.12 東京都新宿区 思潮社刊 2200円+税

 時代

ずぶぬれの体を
ひろげて
乾かしている
耳をすますと
はるか地平に生まれた光が
葦の葉の先端から
こぼれ落ちるのがわかる
とがめあい
いがみあい
たくさんの体制や手続きを壊してきた
あたりは
無音
ずぶぬれの体を
ひろげて
海に循環する水のにおいを嗅いでいる
水が水に重なる
人が人に重なる
空が空に重なる
もつれた糸をほぐすふたつの掌の
知らぬまの
祈りの音

 二度出てくる「ずぶぬれの体を/ひろげて」というフレーズに作者の冷静な観察力を感じます。同時に「時代」の認識の仕方が判り、シビアな見方をしているなと感心しました。「時代」を歴史と同じ意味にとらえて「とがめあい/いがみあい/たくさんの体制や手続きを壊してきた」というフレーズに注目すると、いい言葉だなと思います。特に「手続き」という言葉がいいですね。法律、なんて下手な言い方をするよりずっと詩的だと思います。
 そして最後に「祈りの音」。結局、人間はここに行くんだろうなと思ってしまいます。それも怪しげな宗教などではなく「知らぬま」に祈るという、本来、人間が持っているはずの素直な感情を表現していると言えるでしょう。「あたりは/無音」という何気ないフレーズもよく考えてみると、意味が深いと言わざるを得ません。
 1編の作品だけでは紹介し切れませんが、モノの見方と表現にかなりこだわった詩集という印象を受けます。紹介した作品もひとつひとつの言葉について、私なりの理解・感じ方を全て書いたら、どくらいの分量になるか見当もつきません。読者の表現もまた刺激してくれる詩集だと思います。



詩誌『回転木馬』110号
kaiten mokuba 110
2001.10.30 千葉市花見川区
鈴木俊氏発行 非売品

 石/長沢矩子

腹這いのまま
泥だらけのわたしの手が
触っているのは石ころ
握ろうとすると
全身に痛みが走って
立ち上がれない

どんな石につまずいたのか
顔を上げて見ようとすると激しい痛み
うつ伏せのまま目を閉じて待つ
何を?

ふと
石が暖かい
石がふくらむ
みるみる大きくなって建物みたいだ

石の中にわたしがいる
身を屈めて祈っているようだけれど
風に流れて行ってしまった

空は青いらしい
石をまさぐるわたしの手の上に
そっと降りて触れていったものは……

 「石が暖かい/石がふくらむ」というフレーズに惹かれました。そして「石の中にわたしがいる」というイメージにうまく合っていると思います。でも「そっと降りて触れていったものは……」いったい何だったんでしょうね。石に閉じ込められて、あるいは意識としては自発的に篭っていった「わたし」を救い出すものということでしょうか。私はそんなふうに読んでみました。
 「うつ伏せのまま目を閉じて待つ」というフレーズから考えると、その解釈で合っているように思います。「何を?」待つかは読者ひとりひとりのもので良いのかもしれません。そういう意味では開放された作品と言えるでしょう。「空は青いらしい」というフレーズも、この詩の雰囲気を表現するのにうまく作用しているように思いました。



詩誌エウメニデス19号
eumenides 19
2001.10.30 長野県佐久市   500円
詩誌エウメニデスの会・小島きみ子氏発行

 秋のペルソナ小島きみ子

 秋の木の葉は幾とおりにも光を翻すので、そのたびに色の呼び名を変えなければ
ならない。「雲は硫酸でできている」*と教えてくれた詩集には、光を翻す風の出
来かたは書いてはなかった。

 名前とその意昧のことは、解答を求めたりはしてはならないのだと思った。風も
樹木も、その名前を知らないずっと前から出会っていたのだし、知っているという
ことは、幼年時代から現在までの「記憶による連合」*によって喚起される感受性
だったからだ。

 これまでもこれからも「木」というペルソナの「彼ら」は、都会で暮らす、まだ
会うこともない「彼ら」よりはずっと親しく私の身近に存在する(もの)になるだ
ろう。

 木を映す湖の冷ややかな水面には、空の青さも、雲のかたちも、私という
(もの)
の姿も、私が見ているように「彼ら」に見えているわけではなかったが、「彼ら」
のなかに私は混ざっていたし、「私」は彼らのなかに溶けていた。

 水の鏡に映される、 それぞれの仮面のペルソナと呼ばれる人称。 空は水の中に
「青」という色を隠している。雲はさざ波のうえにその形を歪ませている。木は私
という(もの)の中に木を隠す。私は「無情のもの」を映す水鏡の面の奥に、さら
なる私を隠蔽すると同時に、水面に自我という実装の面を剥がしてゆく。

 たゆたう湖の聖なる水鏡。
剥がれ落ちる面の上に付加される仮想の仮面をもって、変革していく「私」という
人格の人称。空だけが知っている空。雲は化学式だけでできているのだろうか。木
に変身することだってできる。けれど、翻す光自身は色彩言語を知っているのだろ
うか。神はほんとうに「光、あれ」と言ったのだろうか。神もまた人間の面の下に
その仮面を隠したのではないのか。人間とともに在るために。

 *「雲は硫酸でできている」・・・村山精二詩集「特別な朝」より
 *「記憶による連合」・・・・・・アンドレ・マルティネ「言語学辞典」より

 作者から事前に連絡があり、私の詩を使わせてくれというのでOKを出してありました。どう使われるのか興味がありましたが、こんなふうに使ったのですね。「光を翻す風の出来かたは書いてはなかった。」と言われてしまいましたけど、それは作品を書く目的や視線が小島さんの意図とは違いますから、無理というものです。作品は「地球の雲」というタイトルで、
1992年に書いたものです。引用された部分は最終連です。環境汚染の当時の現状を象徴化したもので、それ以上でもそれ以下でもありません。「光を翻す風の出来かた」などまったく意図していません。男女の性愛も意図していなければ、愛犬への愛情も意図していないように。
 同じように「雲は化学式だけでできているのだろうか。」という疑問にも応えければなりませんね。厳密には「雲」が私の作品から引用された部分と思われ、それ以降の言葉は私の作品にはいっさい使ってありませんから、これは私の作品への疑問と受け取ることは間違いかもしれません。しかし、文意からするとそうなのかなと思います。で、応えは化学的には「化学式だけでできている」と言わざるを得ないと思います。現在の私たちに全ての物質が把握できているわけではありませんが、現在がそうだというだけであって、理論上は将来的には全て把握できます。もっとも、ここではそんなことを言っているわけではなくて、観念の世界などを含めると「雲は化学式だけでできているのだろうか。」という疑問になるというだけでしょうが。
 ちょっと心外な思いがありましたので、正直な気持を書いてしまいましたが、小島さんの意図と私の受け止め方にズレがあるようにも思います。見ている土俵が違う気がするのです。小島さんから反応があれば、それは掲載します。どこがズレているのか議論することも必要だと思っています。



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