きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2001.11.9(金)
沼津でやっている「柳家小満んとあそぶかい」という落語の会があったんですが、行きませんでした。今日は徹夜明けの予定だったんで止めておいたわけです。しかし結局、徹夜は無くなって、行ける体制にはなりましたけどね。主催者へ迷惑かけることになるんで止めましたけど、毎回出てくる「越乃寒梅」が呑みたかったなあ。落語を聞いて、小満ん師匠を囲んでの夕食会というのは最高なんです。まあ、まだまだ長く続く会ですから、あまり焦らないようにしますけどね…。
○菊田守氏詩集『仰向け』 |
2001.11.1 東京都港区 潮流社刊 2381円+税 |
フランス製本の美しい詩集です。画面では表現し切れなくてすみません。
菊田さんは「小動物詩人」と言われるほど、小動物や昆虫などを題材とした心やさしい作品を多く書いている方です。本詩集にもそれは多く表現されていますが、今までとちょっと違った視線の作品がありました。それを紹介してみます。
眠り猫 ----日光・東照宮
左甚五郎が彫ったと伝えられる
眠り猫が眠っている
そのうしろの見えないところに
雀が二羽とんでいる
(裏にまわって見るとわかる)
左甚五郎は
何でも知りぬいていて
眠り猫だけは表に彫った
彼の優しいこころは
人目につかないところに
二羽の雀を遊ばせている
(これが本音でいいたいところだ)
猫が眠っているので
雀たちは安心して
とんで遊んでいられる
本当は
雀は眠りたいのだ
猫は起きて
雀を追いかけたいのだ
猫が眠っている
本当に此処では
猫は眠り続けなければいけない
そして雀は
とび続けなければならないのだ
小動物は小動物でも、木彫りの猫と雀です。「人目につかないところに/二羽の雀を遊ばせている」とは知りませんでした。その理由が「猫が眠っているので/雀たちは安心して/とんで遊んでいられる」ためだと知らされ、左甚五郎って、すごい男だったんだなと思いましたね。それと同時に、それを詩にしてしまう菊田さんもすごい。いい視線をお持ちだとつくづく感心してしまいました。
第4連、最終連は意味が深いと思います。本来の猫や雀のあるべき姿を木彫りという形で閉じ込めた左甚五郎。それを「本当は」と見透す詩人の眼。なにやら過去と現在の巨匠同士の対話のようで、そんな楽しみ方もしてしまった作品です。
○松山妙子氏詩集『橋を渡る』 |
2001.10.25 東京都新宿区 土曜美術社出版販売刊 2000円+税 |
墓参
むかし むかし
大きな戦いがあった時
動物園の象のトンキーや
ライオン ヒョウなどに
猛獣等処分命令が出た
給餌の停止 かなしい最期
むかし むかし
大きな戦いがあった時
中国大陸で生後二ヵ月の弟が
飲む乳も無く餓死した
物置で死体を凍らせ
荷物のように
トラックに放り投げ積みあげ運ばれていった
そしてハルピン公園に埋葬された
夜更け
それらの死体から着物をはぎとる人が群れた
きょう
象が眠る墓の前に立って目をつむると
いつものように芸をして
必死に餌をおねだりしているトンキー等三頭の象と
なんとか監視の目をぬすんで餌をやりたいと願う
飼育係のおじさんがみえてきた
はるか遠く
凍てつく地にねむる弟たちよ
おまえたちへの墓参の日はいつか
そこに赤いさざんかの花は咲くか
太平洋戦争中の「猛獣等処分命令」と「飲む乳も無く餓死した」弟を見事にダブらせた作品だと思います。そして「おまえたちへの墓参の日はいつか」と問う作者の心境を思うと、胸が熱くなるのを覚えます。いつも犠牲になるのは力の無いものたち。それに僅かな抵抗をしようとする「飼育係のおじさん」もまた犠牲者と言えるでしょう。
人間として、生物としての寿命を全うしたものへの墓参、途中で無理やり生命を剥ぎ取られたものへの墓参。できれば前者への墓参だけで済ましたいものですが、アフガンでの戦争や日本国内での事件を考えると、そうはいかないようです。人間はいつまで過ちを繰り返すのか、この作品を通じてそんなことまで考えさせられました。
○秋原秀夫氏詩集『川の歳月』 |
2000.8.10 東京都東村山市 書肆青樹社刊 2000円+税 |
水族館
埋立地に新しくできた水族館を見に行く
狭い水槽の中で不機嫌な魚たち
の間を通って
急に明るい円型の部屋に入る
周囲を取り巻いている水槽を
数百匹のマグロの群れが
早いスピードで右回りに泳いでいる
あのマグロたちも
夜になったら眠るのだろうか
などと思っていたら
彼等はたえず泳いでいないと
呼吸が止まってしまうという
海流に乗って泳ぎつづける習性が
えら呼吸を退化させたらしい
マグロだけではないぞ
と思って見ていると
一匹だけ左回りに泳いでいるのがいる
数百匹の流れに逆らって
泳ぎつづける彼を見ているうちに
少し気持が明るくなってきた
習性とは恐ろしいものだと思いました。「海流に乗って泳ぎつづける習性が/えら呼吸を退化させたらしい」とは知りませんでした。「マグロだけではないぞ」と指摘されると、何やら人類もそんな退化をしているような気になります。しかし「一匹だけ左回りに泳いでいるのがいる」という観察には、私も「少し気持が明るくなってき」ました。おそらく、人間の社会ではそんな一匹を詩人≠ニ言うのかもしれません。
人間については何も書かれておらず、唯一「マグロだけではないぞ」と遠回しに言っているだけですが、どうしても人間に置き換えてしまいますね。うまい作品だと思います。
その他紹介したい作品が多くありましたが、ここではタイトルを紹介するに留めます。「葬式」「白い雲」「土産話」など人生の深さを知らされる作品です。
○久野裕康氏詩集『パッキン』 |
2001.11.1 大阪府高槻市 空とぶキリン社刊 1500円+税 |
やる気
おまえら いったいやる気あるんか
鬼軍曹の課長補佐がドンと机をたたく
ほんとだ どこにあるんだろう
机の引き出しをかき回してみる
メモ用紙にティッシュ バー白樺のマッチ
社内旅行で秘書課の女の子と撮ったスナップ
でも見つからない ロッカーにもない
おかしいなあ いらいらしてくる
今日は赤堤灯の前も素通り
帰って ゴルフバッグをひっくり返す
本棚も捜す やっぱり出てこない
あきらめて飯を食って寝てしまう
夜中に赤ん坊が泣き出した
小さなこぶしをしっかり握って
ぎゃあぎゃあ泣く
片っぽの手をそっと開けてみた
こんなところにあった
著者は定年間近の3年前に図書館のイベントで初めて詩人≠見て、初めて詩集を買ったそうです。それから詩を書き始めて、この詩集が第一詩集です。驚きましたね、これが詩を書き始めて3年の人の詩集とは、とても思えませんでした。紹介したい作品が10編ほどあるのですが、ここはグッと堪えて「やる気」を紹介してみました。
いわばサラリーマン物ですが、赤ん坊の手の中に「やる気」があったというオチは最高! そうなんだ、子供のときは誰にでも「やる気」はあったんだ。それが大人になるに従い、自然に序列がついていって、いつの間にか流されていって…。見事というしかありません。詩歴ン10年を自慢する人もいますけど(私もそのひとり)、そんなものは何の役にもたたないという証明をされてしまったようなものです。今年の日本詩壇の収穫のひとつに数えられる詩集だと思います。私よりおそらく10歳は年長の方と思いますが、新しい詩人の登場に拍手を惜しみません。
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