きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2001.11.18(日)
いやぁ、うれしいですね。その日の日記をその日のうちに書けるというのが、こんなにうれしいものだとは思いませんでしたよ。苦節2ヶ月、この2ヶ月ばかりは1週間が10日遅れでしたからね。土曜日は午前中出勤してものの、それから1日半、寝るのも惜しんで本を読みました。いただいた本を20冊くらい読んだんじゃないでしょうか。その甲斐あって、ようやく今日に漕ぎ着けたわけです。だから何だ、と言われそうですが、借金を返したような気分
^_^; と言ったらお分かりいただけるでしょうか。
現在、17時45分。あと5冊読むと借金0。でも、今日のうちにちゃんとアップできるかな?
○小山田弘子氏詩集『風を追う』 |
2000.3.15 東京都新宿区 都政新報社刊 1600円+税 |
児相のババァ
紺碧の空を待ちこがれて
陰鬱な街を歩く
梅雨空は
体中にまといつくものか
少年たちを裸にさせて
日光浴でもさせなくては
はめても はめても
スナップの外れる靴をはいて
今日も街を歩く
ぎこちなくて
学校でマークされた少年たちに似ている
少年の
髪をひっつかんで説教したい時も
スナップでも取り替えてみたら
などと言ってみる
笑みを浮かべて
おろかな大人
自分のスナップを取り替えもせずに
昨日と同じ道を
同じしたり顔で通りすぎ
梅雨明けの太陽を待ちこがれる
著者は児童福祉司で、東京都職員を最近定年退職なさったようです。「児相」とは児童相談所の略であることが判ります。紹介した作品は著者の永年のお仕事が具間見えて、詩集全体を知ってもらうには一番の詩だと思います。もちろんこれ以外にも恋愛の詩や、島の人たちとの交流を描いた優れた作品があります。
「スナップ」の使い方がうまいですね。時々に使われる「スナップ」によって、作品の立体感が増していると言えるでしょう。「おろかな大人」は作品の上では「児相のババァ」に向けられたものですが、当然、私たちにも向けられているものです。
社会の極限に身を置いた子供に接してきた著者の詩集には、私たちに教えてくれるものが多くあります。第1詩集から30年も時間が経ってしまいましたが、その時間は決して無駄ではなかったことを私たちに示してくれています。
○谷口謙氏詩集『半月』 |
2001.11.16 東京都文京区 出版研刊 2095円+税 |
肥満体
一○一歳の男性
当町最高長寿者
と 出動するパトカーのなかで聞いた
大雪の後
狭い道を車は難航する
対抗車は待っていてくれる
運転の係が頭を下げる
つましい隠居
遺体は左側臥位
最終生存確認 一月一七日午後八時頃
息子のお嫁さんが紙オムツ交換
発見 一八日午前八時五○分
朝食を持参したとき
室温九度
直腸内温度三二度
電気毛布のためか
布団内温度二二度
硬直上半身強 下半身中
死斑左側半面を中心に暗紫色強
強圧で退色
失禁あり
後頭窩穿刺クラール
心臓血採取は不用とのこと
検視 午後一時前に終了
死亡推定時間 午後五時頃と決める
きれいな遺体だった
子息夫妻
と言っても男はぼく位の年齢かもしれぬ
顔は合わせていないが−
きちんとした介護の始末だった
高齢者には珍らしい肥満体で
著者は開業医ですが警察の依頼で検視も行っています。検視を書いた詩集は毎年出していて、これで3冊目です。この詩集だけで63件の事例が出ています。この3年でそれに3倍する変死者を検視したことになり、その数に圧倒されます。全国ではどれだけの検視があるのか、想像を絶します。
事件がらみもあれば悲惨な遺体もあるようです。そんな作品の中でホッとできるのが紹介した詩です。101歳という天寿、「きちんとした介護の始末だった」と検視医に言わしめる「子息夫妻」。「高齢者には珍らしい肥満体」という遺体。どうせならこういう形で己の死を迎えたいものです。死を迎えるときは、そのままその人の人生となるような形でありたいものですね。
○個人詩誌『TATAAR』10号 |
2001.10.28 鳥取県米子市 小林尹夫氏発行 非売品 |
日本の殺人事件や米国のテロを念頭に置いた「時代」という作品の中の、次の言葉が印象に残ります。
<殺された子供はどこへ行った。おじいさんはどこへ行った。いや、子供ではない。未来が死んだのだ。消されたのだ。おじいさんではない。一つの歴史が死んだのだ。消されたのだ。>
「子供」や「おじいさん」が個人的に固体として殺されたのではない。それは人類としての「未来」や「歴史」であるという観点、非常に重要な見方だと思います。そういう観点があまりにも無さ過ぎるということをこの作品で知らされました。
○二人誌『夢ゝ』別冊1号 |
2001.11 埼玉県所沢市 書肆夢ゝ刊 400円 |
「なつかしい歌」と副題の付いた赤木三郎さんと山本萌さんの二人誌です。別冊の今号は赤木さんの詩と山本さんのクレヨン画が組み合わさっていました。著作権の問題もあるので全部は紹介できませんが、次の詩句を紹介しましょう。
ぐっすり
ねむったあと めざめが
きて
そこにいつでもあたらしい
問いが
すわっていた
ちょうど中ほどの頁にありました。これだけを独立させてみても、いい言葉です。常に新しい問、なにやら私たちの前に次々と現れてくる問のようではありませんか。
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