きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2001.11.19(月)
書家で詩人の女性から来年のカレンダーを郵送していただきました。山頭火の句を書いたものです。書はまったくの門外漢ですが、自由奔放でありながら優しい感じを受けました。俳句も勉強しないといけないなと思っていたところですから、毎月違った句を読めるなんてありがたいことです。これを機に俳句にも親しんでいければいいなと思っています。
○鬼の会会報『鬼』354号 |
2001.12.1 奈良県奈良市 鬼仙洞盧山・中村光行氏発行 年会費8000円 |
毎号楽しみな「鬼のしきたり」は、今号は現代にも密接している言葉の解説です。
さよなら
別れるとき「さよなら」という。「さよなら」とは「さようならば」、「そうであるなら」である。姫君の「さらばじゃ」の「さらば」も、武士の「しからば御免」の「しからば」も、そうであるならの意昧。「あばよ」も「さらば」が訛ったもので、「はいちゃ」も、「はいそれじゃ」で事務的な表現になるわけだ。それにしても、外国語の「バイバイ」を、挨拶語に用いる国民は多くあるまい。
「左様ならば」が語源とは、言われてみればその通りですね。「はいちゃ」はドクタースランプという昔のTV漫画が語源かと思っていましたが、由緒正しい言葉だったとは驚きです。学のある漫画家が使ったのかと思うと、侮るべからずです。もっとも、アタマ良くないと漫画なんか描けないでしょうね。
○清水榮一氏詩集『凡俗の歌』 |
2001.11.20
宮崎県東諸県郡高岡町 本多企画刊 2500円+税 |
偶感
随分と紙幣(かね)を喰っている
建物のなか----
まるで其処いらの塵芥の山のなかから
ひろってきたかのような安易な着想(アイディア)
未熟な心の襞をひろげてみせた
「芸術(もの)」でいっぱい……
----明るい画布の一部に鉄板をはり
それを鋭い鋼のブラシで擦ってみたり
将叉うごめく臓器のような奇怪な紋様
そいつを飢えた野獣(けもの)の血汁の色で塗りたくってみたり……
あゝ 然し
これでこれらの作者はこの瞬間を生き
寡黙な己の心の底を
のぞきみた心算か
総てを土足で踏み込むような意匠で誤魔化し
張りあい揉みあい蹴落としあっている惑星(せいと)のなかで
何時しか素朴な
慎みの精神(こころ)、謙屈さをなくした者らの悲しき饗宴----
戦争が
忍び寄っている
(ある抽象画の展覧会場にて)
伊藤桂一さんの跋文によると、著者は日本美術家連盟事務局長を定年退職なさった方のようです。詩集全体の中では異質な部類の作品ですが、抽象画について厳しい見方をなさっているのに興味を惹かれ、紹介する次第です。*
ルビは新聞方式で表現させていただきました。
私は絵画は門外漢で、大きなことは言えませんが「まるで其処いらの塵芥の山のなかから/ひろってきたかのような安易な着想」や「総てを土足で踏み込むような意匠で誤魔化し」たとしか思えない作品に出会うことは確かにあります。タイトルに「作品A」なんてのが付いたりしていると、まったく理解もできないし、感じるものもないという状態になります。それはおそらく、こちらの感受性が鈍いからなんだろうなと思っていました。しかし、そうではなくて「慎みの精神、謙屈さをなくした者らの悲しき饗宴」だったのかと知らされて、ホッとしています。
もちろんまともな抽象画もありますし、それは私なりに感じることができているだろうと思います。何と言ったら的確なのか判りませんけど、作者の論理的な思想が感じられるかどうかが分れ目だろうと思っています。
それはそれとして、作品の中ですごいなと思ったのは最終連です。単なるデタラメな抽象画に関する詩というだけでなく、その背景には「戦争が/忍び寄っている」という指摘。おそらく戦争の時代には「慎みの精神、謙屈さをなくした者ら」が増えてくるという指摘でしょう。永年、絵画を客観的に観てきた著者だからこそ感じ取れるのだろうと思います。教えられることの多い詩集です。
○詩と批評誌『逆光』43号 |
2001.10.25 徳島県阿南市 宮田小夜子氏発行 500円 |
セミの時間/平井廣惠
深さ 7センチ 5・5センチ 6・3センチ
直径 9ミリ 7・5ミリ 8ミリ の
穴が開いている
セミが這い出てきた穴で
1センチ這い上がるのにどれくらいかかったのか
夜も昼も朝っぱらからも もっともっとっと
喚くように鳴いて 触れ合っているカップルたちの
沈黙の暗い穴でのおよその10年は
人間のわたしたちの時間ではどれくらい?
時間はゴムのように伸びたり縮んだり
まぶしいなあ
存在することの終わりは
「時間はゴムのように伸びたり縮んだり」というフレーズで思い至りました。「セミの時間」があると同じようにドッグイヤーというものがあります。犬の1年は人間の6年、というものです。正確には最初の3年は8年ぐらい(だったかな?)で、後は云々、というらしいですけど。セミの「沈黙の暗い穴でのおよその10年は/人間のわたしたちの時間では」20年にも30年にもなるんでしょうか。
人間は1時間も1年も人間に合せて決めていますけど、セミや犬にとってはまったく違うものになるんでしょうね。「時間はゴムのように伸びたり縮んだり」というフレーズにはそんな思いも込められているように思います。そして「まぶしいなあ/存在することの終わりは」という最終行も重要ですね。セミにとっては死ぬ直前が一番「まぶしい」なんて、おもしろい見方だと思います。モノの基準を人間中心にしてはいけない、ということを教えられる作品だと思います。
○個人詩誌『点景』25号 |
2001.11 川崎市川崎区 卜部昭二氏発行 非売品 |
希望/卜部昭二
早暁の枕頭に
菩薩
否 薬瓶だ
合掌し
いまのんだら
効くか
巻頭の作品です。何とも言えないユーモアを感じて、次には病気に勝とうとしている気迫を感じて、複雑な思いで拝見しました。卜部さんとは年に何度もお会いしていますから、大病を患っているとは思えませんので、おそらく前者の感じ方で合っていると思いますが…。
大病とは言わなくても風邪程度でも、この気持は判りますね。頭がフラフラして、ベッドから起き上がれないようなときは、本当に「合掌し」たくなります。小品ながらうまいところを切り取って見せてくれた作品だと思います。
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