きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2001.11.20(火)
日本詩人クラブの機関誌「詩界通信」7号の校正が終りました。1999年から理事をやっていますが、最初の2年は総務担当でした。総務はナンデモ屋ですから結構忙しかったですね。本年度からは広報担当になったので少しは閑になるかなと思っていましたけど、とんでもないです。総務時代の1.5倍くらいの忙しさです。なぜかな?と考えて、当初は慣れていないからだろうと思っていました。違いますね、発行回数が多いんです。2〜3ヶ月に1度の発行ですから、空いている間がないんですね。ちなみに来年1月末発行予定の8号はすでに原稿集めに入っています。7号の発行が11月末ですが、8号の原稿締切りは11月20日ですから、完全にダブっています。
考えてみれば今までそういう経験はありませんでしたね。わが同人誌『山脈』は年に2〜3回の発行ですから、ダブることはありません。以前、代表をやっていた詩誌も年2回。タイミングをつかまえるのに苦労している理由も、我ながらようやく理解しました^_^;
しかし世間では月刊で出している機関誌も同人誌も多いです。編集部の人間も多いだろうと想像しますし、会社勤めの傍らということもないんでしょうが、それにしても立派なものだと実感しますね。がんばれ、月刊誌!
○金敷善由氏詩集『包帯男』 |
2001.11.30 東京都東村山市 書肆青樹社刊 2300円+税 |
まぼろしの太陽
目覚めたら清らかな朝の光が部屋中にながれていた。
こんな青くさい言い方はもう疾うの昔に通用しない。あ
れは何時の世代だったか、全く思いだせない。だが、た
しかにあの時から、あらゆる光は地球から一切消滅した
筈ではなかったのか。それまで途方もなくスケールの巨
きかった太陽も、墜ちてしまえばまるでちびた飴玉でし
かなくなり、その黒いかたまりは忽ち溶けてなくなって
いた。あれ以来、わたしの書斎にななめに射るようにす
るどく照りつけながら舐めまわしている冷たい光の群れ
それらはすべて一度消えていったかつての太陽の残骸か
ら放たれるそれなのだ。なにもわたしだってこんな狂気
じみたことを言えば、当然ながら多くの市民から否応な
し、指弾されることは避けられない。それから、それを
承知で私がまたこれを言うのであれば、益々もういま以
上に不幸のドン底、場合によっては親戚中から爪弾きさ
れて、挙げ句は臭いめしかも。けれどわたしは決して異
常者でも何でもない。単なる詩をかきたい一心でその余
りの情熱から、たとえば喩の世界で言っていないことを
これから証明しよう。
さて振り仰げば光はかなたの宇宙からいともたやすく
降ってくる。大概のひとはそう考えて、すこしもその事
に疑いを挟まないだろうと思う。光の故郷は、そんなに
甘くない。光は、何万年、何億光年のはるか闇のかなた
に散らばるマグマの塊から発生するのだ。だから太陽も
初めはそれらの途轍もない高い温度から、圧縮された小
さな蜜のような生き物だった。それがしだいしだいに巨
大なガスと光の重量でみるみるうちに雪だるま式に膨れ
上がっていったのである。その太陽の生命力は五十億年
とも百億年とも言われているが、たとえば一光年の距離
は、何と、約九兆四千六百七十億キロメートルというの
だから、もう気が遠くなるばかりだ。わたしはそれでも
おそるおそる夜、宇宙を仰いでおもむろに眺めると、そ
こにもあるわあるわ、一千万光年の星がざらにあった。
あの星たちもやがてみえなくなり世界はさらに暗くなる
時間にまた、一息入れるまもなく真っ赤な嘘で歪められ
たまぼろしの太陽がゆっくりとあがってくる。
久しぶりに「喩の世界」にどっぷり浸かったな、という思いがする詩集です。全編散文詩。まるで安倍公房の小説を読んでいるようでした。脳がフル回転しているのが判りました^_^;
紹介した作品は、まさに「まぼろしの太陽」です。唯一絶対と思い込んでいる太陽が、実は「真っ赤な嘘で歪められ」ているのだと知らされたとき、私の脳は衝撃を受けていましたね。
人生はなぜ一度しかないのか、環境問題はなぜ重要なのか、理想の政治形態から現実はどうして外れてしまうのか、高校受験を控えているのに娘はなぜ勉強しないのか、等々、私たちの目の前にある様々な問題は、実は「かなたの宇宙からいともたやすく/降って」きて、「すこしもその事/に疑いを挟まない」ことが大前提にあります。太陽は死なない、少なくとも私や子や孫やそのまた孫の孫、それ以上の世代に渡って太陽は死なない。その大前提に立って、さあ問題をどうするか、ということをやってきたように思うのです。
ところがこの作品では、とっくに太陽なんか死んでいて「ちびた飴玉でし/かなくな」ったと言うのですから、根底が見事に崩されてしまいました。でも大丈夫。太陽の代替品である(とは書いてないけど)「一千万光年の星がざらにあ」る。でもそれは「まぼろしの太陽」なんだ。
浅いところしか読み込んでいませんけど、そんなことを感じました。「あ/れは何時の世代だったか」という言葉も重要で、そこから切り込んでいくべきかもしれません。例えば30年前、50年前の時代の太陽とは何だったのか、という視点もおもしろく切り込めます。HPをご覧の皆さまも頭を柔らかくして、この作品を様々な角度から鑑賞してみてください。個性的な鑑賞ができればできるほど、著者の思惑にはまり込んだと言えるでしょう。
○詩誌『阿由多』3号 |
2001.12.10 東京都世田谷区 阿由多の会・成田佐和子氏発行 500円 |
国分寺まで/尾崎昭代
娘と二人
秋色に染められた電車に乗った
秋色の風景が車窓を流れていく
ふいに 姿かたちのよい
銀杏の大樹が目に入る
午後の斜めの陽を浴びて
光の衣をまとった聖人のようだ
電車を降りてしまって
あの樹の下に立ってみたい
金色の葉のきらめきを見ていたら
時間がとまってしまうかもしれない
娘の結婚が近づいてきていた
せめて
銀杏の新しい葉の芽吹きの春まで
今の 娘と母とのまま
ここにとどまっていたい
----おぼえていることはごくわずかなことだ※
とは きのう読んだ詩の一行
今日の日を おぼえているだろうか
娘の誕生した時のことは
ついきのうのことのようにおぼえている
電車は とうとう
終点 国分寺に着いてしまった
※長田弘「一日の終わりの詩集」
長田弘さんの詩がうまく生かされていると思います。もとの詩を超えることはなかなか難しいのですが、「今の 娘と母とのまま」というフレーズと呼応して奏効しています。しかし「時間がとまってしまうかもしれない」という母親の気持が痛いほど伝わってきますね。私にはまだ経験がありませんが、娘を結婚させるというのはこういう心境なのかと思いました。
おそらく「今日の日」は特別な日なんでしょう。できれば行きたくないという思いが「せめて/銀杏の新しい葉の芽吹きの春まで」や「電車は とうとう」というフレーズに現れています。喜びの反面、複雑な心境がうまく表現された作品だと思います。
○詩誌『獣』55号 |
2001.11 横浜市南区 獣の会・本野多喜男氏発行 300円 |
耳の巻/本野多喜男
−こんどは びょうきのことではない−
じぶんの耳と
たにんの耳との間には
いつも乱気流が発生する
ときとして耳たぶが痛むので
鏡で見ると
今までの澱みが
たくさんぶらさがっているのだ
耳から入ったことば≠ニいうものは
脳を通って
口から出るときには
まるっきり違うものに
なってしまっているので
おかしなものだ
耳かきで耳垢をほじくっても
悲鳴がつぎつぎと湧くように
はてしなくでてくるだけなのだ
耳について考えさせられました。「耳から入ったことば≠ニいうものは/脳を通って/口から出るときには/まるっきり違うものに/なってしまっている」という指摘は重要です。それが「乱気流が発生する」理由だと思うと、ちょっと恐ろしい気分にもなりますね。耳の中からは「悲鳴がつぎつぎと湧く」というのも鋭い指摘だと思います。
何気なく聞いている言葉が、本野さんという詩人の耳を通過するとこんなにもシビアになるのかと思うと、いかに自分がボーッとしているかを知らされます。小品ながら考えさせられた作品でした。
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