きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科




2001.11.23(
)

 渋谷で買い物をして、インターネットカフエなるものに初めて入ってみました。パソコンを持ち歩く時代ではなく、それらを利用してみようと思ったからです。当り前ですけど、当然、拙HPも表示されます^_^; リンクされている日本ペンクラブに入ってみて驚きましたね。なんと「電子文藝館」が開館しているではありませんか! 11月26日の「ペンの日」に開館するとばっかり思っていましたが、11月22日の電子メディア委員会で早目の開館が決ったのだろうと思います。私は外せない送別会で欠席していました。
 私は力量不足であまり力が入れられなかったのですが、この半年ほどの委員会はそれだけをやってきました。一番の尽力者・秦恒平委員長の喜びを思うと感無量です。もちろんまだまだ解決しなければならない問題もあって当面は気が抜けませんけど、これで委員会を離れて事務局や理事会が管理することになります。掲載人数はまだ30名ほどと少ないのですが、日本ペンクラブの歴代会長・会員の作品が無料で公開されています。特に物故会員の作品は紙の本でも入手が困難です。日本ペンクラブらしい活動になったなと自負しています。どうぞご覧になってください。ご意見、ご指摘なども伺いたいと思います。
 
http://www.japanpen.or.jp です。
 この場を使って、会員の皆様にお願いいたします。ぜひ原稿をお寄せください。原稿料はありませんが、掲載料もありません。ペンクラブの一員としての足跡を将来に渡って残してくださるようお願いいたします。出稿の詳細は「電子文藝館」にも記載されていますし、Eメールをお持ちの方には事務局から連絡があります。また会報に合わせて文書が配布されますので、よろしくお願いいたします。


 夕方からはシャンソン歌手・金丸麻子さんのライブが六本木「ピギャール」でありまして、行ってきました。金丸さんはお店で歌ったり、仲間とコンサートを開いたりしていますが、ここ数年、ソロのライブを年に一度やるようになってきました。今年は11月17日と今日の2回。今日は25名ほど集ったんですが(定員いっぱい)、17日はお店も広くて50名ほど集ったようです。

011123

 蝋燭の灯りと暗いスポットライト。いい雰囲気でしたね。「ピギャール」という店は、彼女が何度も出演しているのを知っていましたけど、行くのは初めてです。それこそ25名でいっぱいというような小さな店ですけど、歌手とかけ合いをしながらシャンソンを聞ける、いい店です。ロートレックの模倣画が壁に描かれていて、行ったことはないけどパリの雰囲気が出ていると思いますよ。
 ライブの中で一番気に入ったのが「脱走兵」という曲。大統領閣下という言葉が出てきますから、時代背景は共和制になってからだと思います。人を殺したくないから徴兵拒否をするという内容で、脱走≠ニはちょっと違うと思いますが、いずれにしろ徴兵される若者の心境を歌った作品でした。フランスのある面での国民性が感じられて、いい曲でした。
 金丸さんは年1回のソロライブを2回ぐらいに増やしたいと言っていました。いいですね、私も都合をなるべくつけて聞きに行きたいと思います。やってくれるんだったら、やっぱり「ピギャール」がいいな。六本木の夜をシャンソンで過ごし、その後どこかで静かに呑んで、そんな日が年に2回もあればうれしいですね。



日本現代詩文庫108『山田直詩集』
yamada tadashi shisyu
2001.11.30 東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊 1400円+税

 1967年刊行の第一詩集『百貨店』から始まって、1974年『気弱なパパの詩』、1982年『男と女と』、1987年『故郷喪失』、1988年『レイン・カムズ』、1989年『通勤電車』、1990年『Enkatainment』、1991年『海の見える風景』、1994年『ある日常』と続き、1998年刊行の『他者の土地』までの主要な作品をまとめたものです。他に詩誌『日本未来派』でお書きになったエッセイ2編も収められていました。

 満潮


ぼくたちのひそやかな彫像は
忍びよる闇とともに塑りはじめられる

秘密な隙間風がなまぐさくもつれて
そこから透かしでたきみの裸形は
ドラゴンの爪につかまれた
発光する玉になる

夕暮れの満潮は今が盛り
干潟に残る泡のように
62階の窓の灯が
少しずつ黒い海水にのみこまれ
目覚めた霊魂の無数に光る目に変わる

二人きりになると
淋しさは二倍になるのね

これから生きていく長い時間が
ひたすら頼もしく
そして煩わしかった
あの若い日と同じことばが
壁面を伝ってはいのぼってくる
盲目の霧の舌に跳ねかえって
今は別の響きに聞こえる

目の前の世界が透明にならないことが
せわしい息遣いがもう遠のいたぼくたちには
むしろ逆にふさわしいのかもしれない
どうやらぼくにはすべてが見える気がする
ことばも 闇も 淋しさも
二人であることも

 紹介した作品は第9詩集
『ある日常』に収録されていました。「二人きりになると/淋しさは二倍になるのね」というフレーズにドキリとさせられた作品です。おそらくお子さんも巣立って二人きりになった状況と思いますが「あの若い日と同じことばが」に呼応して、長い時間の流れを感じさせます。若い日とは、結婚式の喧騒から開放された時ではないかと思います。
 第3連の情景描写も優れていて、「干潟に残る泡のように」「少しずつ黒い海水にのみこまれ」るように「目覚めた霊魂の無数に光る目に変わる」なんて、満潮と夕闇がうまく重ねられていて、それが人生の満潮とダブって、すごい表現だなと思います。場所は池袋でしょうか、都会の夕暮をこのように表現した作品に浅学ながら出会ったことはありません。
 詩人としても人生においても大先輩の作品群に、教えられることの多い詩集です。



詩歌鑑賞ノート(四)
『阿部正路の短歌』
shiika kanshou note 4
2001.12.1 名古屋市名東区
阿部堅磐氏発行 非売品

 副題に「歌集『火焔土器』『伊那谷』より」と付いている、阿部正路という歌人の歌集を評したものです。*「焔」は本字ですが表示できません。ご了承ください。
 「阿部正路先生の霊に捧ぐ」とありますから、すでに亡くなった歌人のようです。
 「鑑賞ノート」をさらに鑑賞≠オて紹介してもつまらないので、ここでは阿部堅磐さんが鑑賞し紹介した短歌のうち、次の句を転載します。

   百号へ集ひて離散せざりしは一人が一人の歌を持つため

 歌集『火焔土器』に収められた作品とのことです。阿部堅磐さんもお書きになっていますが「一人が一人の歌を持つ」ことがないと、100号という長い歴史は築けないでしょうね。もちろん詩誌も同じです。相手をおとしめることを目的とした批判が内部でなされていたら、結社としての意味はありません。相手に現在よりも一歩でも高まってもらうにはどうするか、という観点の批評のみが許されるのだと思います。
 それにしても、よく読み込んでいるなという強い印象を持ちました。自分の作品のみ、自分を世に出すことのみを考えている輩が少なくない現状だと思います。そんな中で、相手の立場に立った「鑑賞ノート」を4冊も発行し続けたことに敬服します。私のこの拙いHPも、阿部堅磐さんを少しでも見習っていきたいと思います。



姨嶋とし子氏詩集
『この手の記憶を』
kono te no kioku wo
2001.12.1 大阪市北区
編集工房ノア刊 2000円+税

 

首輪が 鎖が
ぼくの自由をしばる などと
突っぱるのは止めることにする

人間よ。働け 働け
そしてぼくに奉仕せよ

これからお散歩だ
糞処理器を持って従いておいで

毛並が光るまで
念入りに洗うんだよ

綺麗な洋服を着て
美容室へゆくんだ

その後 ぼくは手足を伸して
ゆっくり眠ることにする

眼が覚めると
美味しいフードが山もりだ
ぼくは大きく欠伸をする

人間よ
ぼくへの奉仕を忠実に
それがすんだら
しっかり働けよ

 紹介した作品の直前に「戻りたい」という詩が載っています。犬が人間に支配されて、首輪で繋がれている現状を憂い、曠野を駆け巡っていた時代に戻りたい、というものです。その作品と対で鑑賞しましたが、おもしろいですね。「戻りたい」という作品は、まあ一般的な見方と言っていいでしょうが、紹介した「犬」は逆の立場です。なるほど、こういうふうにも見えるなと感心しました。
 我が家にも小型の室内犬がいて、「毛並が光るまで/念入りに洗」ってもらって、「美容室へ」行っています。しかも
毎月6000円も払って。亭主の私でさえ2〜3ヶ月に一度、4500円ほどの散髪代しかかからないと言うのに。確かに「奉仕を忠実に/それがすんだら/しっかり働」いているようなものです。
 まあ、それを越えても家族の一員というメリットの方が大きいですけどね。私が仕事から帰っても、妻も娘もテレビを見てアハアハやっているだけですけど、愛犬だけはスッ飛んで迎えに来ますからね
^_^;



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