きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科




2001.11.24(
)

 第171回「KERA(螻)の会」が新宿・談話室「滝沢」であって、出かけてきました。今回は「女性詩をどう考える」というテーマで、10名が集りました。戦前はともかく、戦後に限った女性詩の歴史を振り返りながら、今なお女性詩≠ニいう言葉がある現状について討論し合いました。かなり白熱して、私なんかせっかくデジカメを持って行ったのに、撮るのを忘れてしまうほどでした^_^;
 まあ、結論など出せるはずもなく、女性詩≠ネどという言い方をされない時代が来ることを願って終りましたけど、二次会の「ライオン」でもしばらく論議は続きましたね。70歳台の方が5名、私を含めて
50歳台が5名と、ちょうど親子の年代に近い階層ができて、世代による認識の差もあることが確認できておもしろかったですよ。
 三次会は久しぶりにゴールデン街の「わらじ」(漢字を忘れた)に行ってみました。一次会に出席できなかったお二人が待っていて、そこでもちょっと話題になりましたね。しかし、残念なことに一番遠い私は途中退席。こういう場面では東京都内にお住いの方はうらやましいですね。まあ、呑み過ぎにならないのでヨシとしますか。



竹内美智代氏詩集『呼び塩』
yobijio
2001.11.25 東京都東村山市
書肆青樹社刊 2300円+税

 呼び塩

塩鮭一本
小人数の家族が身を食べ終わるころには
残った氷頭
(ひず)まで塩気がしみこんでいく

塩気の強い魚の塩味を薄くするには
呼び塩の薄い塩水に浸しておく
塩鮭の氷頭の酢の物が好物だった祖母は
その頃合いがうまかった

さびしさにあうとさびしい海が恋しくて
海と向き合うと心が不思議に休まってくる
海辺のふるさとを離れたわたしは
さびしさを 向き合う海に薄めてもらっていたのだ

海辺で生まれ育った祖母も遠い昔
じっと海を眺めていたことがあった
祖母もわたしと同じように
海にさびしさを薄めてもらっていたのだ

 「三っ子屋」「夕暮れ」「おにぎり」「父と」「あげどうふ」「花の顔」「コユビノカラアゲ」「箸」「鴉」など紹介したい作品が次々と現れて困ってしまいましたが、ここはタイトルポエムでもある「呼び塩」を紹介いたします。
 「呼び塩」という技法に驚くとともに、それを「さびしさ」に重ねた着眼点が優れていると思います。「呼び塩」は半透膜を使った透析などにも応用されていると考えられますが、そういう視線は私にはありませんでしたね。生活の知恵と言ったらそれまででしょうが、近い濃度差を応用するという科学的な根拠を持った技法です。それが「祖母」から「わたし」へと受け継がれていく血のつながりを感じさせ、科学ではなく文芸の醍醐味を知らされました。
 紹介しませんでしたが「あげどうふ」も優れた作品です。40年前に鹿児島から上京し、今と違って寂しい町だった原宿で、初めて使った東京言葉があげどうふをくいやんせ=B竹内美智代という詩人を理解する上では重要な作品と思います。機会があったらぜひ読んでいただきたい一冊です。



詩とエッセイ誌『千年樹』
sennenjyu 8
2001.11.22 長崎県諫早市 岡耕秋氏発行 500円

 柳/岡 耕秋

さわさわと枝をひろげている

干拓平野の
低い青麦のひろがりのなかで
春霞をしっとりと吸い込み
にごった水路にかげを落としている

ゆっくり流れる水
ゆっくり流れる時
そのいずれも
わたしのものではない

柳は
遠くをみつめる瞳をもっている
デーンの沃野の小川のほとりで
オフィーリアの花の亡骸を
やさしくおおった

春霞はたたずむわたしを濡らす

堤防の向こうに
もう満ち干く潮のささやきはない
ひがたの海はない
冬ごとの大陸の使者たちの
空高くひびいた歌声もない

いっぽんの水路の柳は
諌早湾に起こったことを
なにも話してくれない

 「もう満ち干く潮のささやきはない」「諌早湾」の「いっぽんの水路の柳」への詩人の思いを声高に叫ばず、「なにも話してくれない」と最終行に置くとき、どんなに悔しい思いをしているのかが胸に痛いほど伝わってくる作品です。そして自然界に「そのいずれも/わたしのものではない」と接する態度に、傲慢な人間への憤りが感じられて、己の生き方さえも点検せざるを得ない作品です。
 樹の詩人・岡耕秋さんの添え文には大学院入試を控えているとありました。医師として永年の実績があるのに、まだまだ勉強しようという真摯な姿勢に敬服しています。そんな作者であるからこそ生まれ得た作品と思います。



文芸誌『伊那文学』61号
ina bungaku 61
2001.11.25 長野県伊那市
伊那文学同人会・中原忍冬氏発行 500円

 永歎/中村 絢

彼らはもう長い間
互いを見つめ合ったことがない
ある日彼女は思いついて
夕食に左足を料理した
彼は新聞の向う側
いつものようにビールで流し込んだ

次の日には右足 その次の日には左腕
彼女は血を流し続けたが
彼は見ようとしなかった
彼女はいなくなったので
彼女がいないことに
いつ彼が気づいたか知らない

吠えないように
喉に取り付けられた器具にも
いつのまにか慣らされて
学校で 会社で 台所で
どうしてそんなに
忠誠を誓ったのかも思い出せないまま
人々は 声もなく哭いている

 最終連で見事に現状を描いてみせた作品だと思います。特に「いつのまにか慣らされて」「どうしてそんなに/忠誠を誓ったのかも思い出せないまま」というフレーズには、作者の憤りが感じられて、思わず自分の身をふり返ってしまうほどです。鋭い指摘と言えましょう。
 それらを考える上で、第1連、第2連は重要です。「彼らはもう長い間/互いを見つめ合ったことがない」という家族そまものが現状の根源だと説く姿勢に共感します。小品ながら巻頭を飾る作品でもあり、『伊那文学』の品格を高めていると思います。



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