きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2001.11.28(水)
校正について考え込んでいます。ここのところ2度ほどHPで紹介した作品の誤植を指摘されて、冷や汗ものです。原因はスキャナーで読み取った作品の校正不足です。手入力の場合は読み間違い、打ち間違い、変換ミスなどいろいろありますが、スキャナー読み取りも結構怖いですね。傑作だったのが「細胞」を「紬胞」とスキャナーが読み取ったときです。手入力ではこんなミスはあり得ませんが、スキャナーでは起こり得ます。これが意外と気付かない。新しい器械には新しいミスがあるということでしょうか。
校正とは中学校の学校新聞から始まって、印刷所でのアルバイト、同人誌・日本詩人クラブ広報と40年近くのつき合いになりますが、まったくミスが無かったのは5割を切っているのではないかと思います。プロの印刷所でも大手の新聞社でも誤植はありますから、私ごときが100%を目指すのはおこがましいかもしれませんけど、やはり目指したいですね。自分の5冊の詩集でさえ、私の校正ミスによる誤植が一箇所あります。難しいものです。
○詩誌『AUBE』21号 |
1999.1.25 東京都武蔵野市 鈴木ユリイカ氏発行 500円 |
円筒の楽譜/深沢朝子
オルゴールが途中から間伸びして歌い
最後に半粒の音を残して途切れた
繰りかえす調べへの好奇心から
ネジをはずし小箱の裏ぶたを開けて
円筒の楽譜のからくりを見つけた
快い孤独の楽園で茜雲に座り
金属片が宿していた余韻に包まれて
澄み切った音色を撒きちらし
青い小石や桜貝をしまいこみ
やがて壊れたオルゴールは
宙の片隅に置き忘れた
懐かしい調べは鼻音に残り
かつて余韻の微分に浸った耳は
暮れなずむ刻(とき)のなかで
微(かす)かな物音に振りかえる
全音符の姿で宵の星が
地平近くひかる
天(そら)の楽器が回りだす
タイトルの「円筒の楽譜」と言い、最初の2行と言い、オルゴールをうまく表現している作品だと思います。それに何と言っても最終連がいいですね。星が「全音符の姿」であるというのは、きれいな表現で、何やらホッとしたものを感じます。布石に「宙の片隅に置き忘れた」というフレーズもあって、構成上も考えられていると思います。
視覚と聴覚を存分に発揮した作品という見方もできるでしょう。好奇心も旺盛で、空想力にも富んでいます。短い詩の中に様々な要素が詰まった作品だと思います。
○詩誌『AUBE』25号 |
2000.1.24 東京都武蔵野市 鈴木ユリイカ氏発行 600円 |
波/松越文雄
満ちあふれるものを 分かちあうように
波と波とが ゆらめきあっている。
よもぎ色のうねりが それを越えてくる。
遠く深いところからやってくる
その高まりを
ゆっくりとたわめ
揺るぎなく押し上げては
そのままに引き落ちていく。
静まりきった位直から 寄りあう位置に
均しく 受け継がれていく
繰り返しの美しさ。
どれもが
呼び覚まされたように 立ちすくみ
前のめりに自分を崩しながら
今はもう 海に戻っていく。
波は「繰り返しの美しさ」と表現する作者の美意識に共感します。それにしても波をこれほどまでに書き上げる詩人を、私は他に知りません。「満ちあふれるものを 分かちあうように」「静まりきった位直から 寄りあう位置に/均しく 受け継がれていく」「前のめりに自分を崩しながら」などの表現に惹かれています。
波は波でしかありませんが、この作品からは私たちそのものを感じてしまいます。毎日の同じような繰り返し。しかし一度として同じであるわけがない生活。それが「繰り返しの美しさ」なのかもしれません。そんなことまで考えさせられた作品です。
○詩誌『AUBE』32号 |
2001.10.25 東京都武蔵野市 鈴木ユリイカ氏発行 600円 |
ふるさと
未完の旅U−故郷について/鈴木ユリイカ
ま ち
わたしはその都市を去ってから、毎日毎日そ
の都市を呼びつづけました、とケィ・オカム
ラは言った。その白い都市は静かな夜、ハー
プの曲のように揺れながら、人工湖から浮き
あがってくることもあったし、夜明けに人工
湖のほとりを散歩するひとたちも見えました。
夜明けの光のなかで、わたしは夢見るように、
恍惚と、その白い都市を呼びつづけることが
ありました、とケイ・オカムラは言った。
わたしが呼びつづけなければ、あの美しい都
市は失くなってしまったでしょう、とケイ・
オ力ムラは言った。ピンクの石の家、白い中
庭のある石の家がある都市から幾つもの国の
言葉が音楽のようにたち昇ってきました、と
ケイ・オカムラは言う。
でも、突然、五十五年もたってから、その都
市を訪れなければならなかったとき、わたし
はとても怖かった、わたしは何も感じなかっ
た、まるで昨日と同じようにその都市があっ
た、それだけ、とケイ・オカムラは言った。
わたしは煮て食べられる白いホオズキを買い
に走って行ったの、とケイ・オカムラは言っ
た。白いホオズキは買えたけれど、黄色いウ
リは手に入らなかった、それがその季節最後
のウリだったの、とケイ・オカムラは言う。
わたしはわたしの幼い頃に住んでいた大陸の
家の庭の石と、海岸の石を持って帰り、脱脂
綿を敷いた菓子箱の十字に区切った中に入れ、
時折、それらの石を手に握ったり、撫でたり
すると精神安定剤になります。とテイ・キヨ
オカは言った。
わたしは思い出そうとする、青いザボン売り
や熱いアスファルト道を、南の島のバナナ畑
やチャボさんの声を、けれども、あの白い光
の他、何も思い出せない、白い雪道やほんの
り赤らんだリンゴの木の他、何も思い出せな
い。どこにもわたしの故郷はない、とマイコ
は言った。あの爆弾が二度も炸裂して以来、
青空の破片が、わたしの心につき刺さり、わ
たしの故郷は青空のなかに閉じ込められてし
まった、とマイコは一言った。
原作には、「都市」に「まち」、「故郷」に「ふるさと」とすべてルビが振られています。しかしホームページ作成のhtml形式ではルビがサポートされていません。作品を1行おきにしてルビを入れるという方法もありますが、それでは冗漫な印象を与えて作品の美しさを損ねてしまいます。そこで最初だけルビを振るという形にしました。ご了承ください。
ちょっと作品から離れてしまいますが、ついでに記しておきますと、このルビの問題はパソコンやインターネットでの日本語の扱いを検討している機関でも話題になっており、早い時期に解消されるものと期待されます。文芸作品に対する配慮が理系の科学者・研究者にも浸透してきて喜ばしい限りですが、早く実装してもらいたいものです。
作品は原爆の被害にあった「故郷」を思う人たちの回想という形になっていますが、それはもちろん作者の思いであるはずです。高名な作者ですが、浅学にしてお生まれ、お歳など知りません。おそらく原爆を直接的間接的に体験しているのではなく、この作品のように聞き取りで接しているだけなのだろうと想像しています。あくまでも第三者の言葉で語らせる、それがこの作品を強くしている秘訣なのだと思います。
「わたしが呼びつづけなければ、あの美しい都/市は失くなってしまったでしょう」と語る「ケイ・オカムラ」。「時折、それらの石を手に握ったり、撫でたり/すると精神安定剤になります」と述べる「テイ・キヨオカ」。「わ/たしの故郷は青空のなかに閉じ込められてし/まった」と言う「マイコ」。一人一人の「故郷」の在り様が、叫ぶことなく、ただ提示されているだけで、それが余計に私の胸を強く打ちます。いつまでも美しいままで在ってほしい故郷が、外部の手によって破壊されるという現実の中で、一人一人がどのように向っているのか、それを示してくれた作品です。それがまた作者の故郷と重なっているはずで、そこへ思い至ることが「未完の旅」であるという、そんな気持が総タイトルに現れているように思います。原爆については世代を越えて、こうやって語り継いでいかなければならない、そう知らされた作品でした。
○アンソロジー 『関西詩人協会自選詩集』第3集 |
2001.11.6 大阪府豊能郡能勢町
詩画工房刊 関西詩人協会・杉山平一氏発行 2500円 |
結成8年目を迎えた関西詩人協会のアンソロジーです。代表の杉山平一氏が巻頭言として述べている言葉が示唆に富んでいますので、まず紹介しましょう。
<もともと、詩にはあまり市場価値がなく、市場競争にさらされないので、独自性とか個性と称して、ひとりよがりになり易く、周辺知友の仲間ぼめに安住してしまうことがある。
外国には(日本でも同じだが)自分にぴったりと思う評を受けたときは、お世辞と思いなさい、という戒めの言葉がある。快よい言葉は、目分を駄目にしてしまうことがある。
自分を知るものは、意外に他人であることが多い。自分を高めようとするならば、自分を、冷淡な未知の他人の目にさらすことが大切であろう。大勢の人のなかに自分を置くところに、アンソロジーの意味があるのである。>
非常に耳の痛い言葉ですね。心しましょう。それにアンソロジーについてもちょっと考え直しました。今まで私はアンソロジーをあまり好きではありませんでした。お付合いで参加している程度で、積極的にやる気にはなれなかったのです。ピンキリがごちゃ混ぜになっているようなもので、あまり意味を見出せないでいました。しかし「自分を高めようとするならば、自分を、冷淡な未知の他人の目にさらすことが大切であろう。大勢の人のなかに自分を置くところに、アンソロジーの意味がある」という言葉で、そういう捉え方もあるのか、と思いましたね。確かに、秀作の中で自分の駄作を改めて見るとき、どういう位置に自分の作品があるのか、思い知らされることがあります。そういう使い方をすればいいのかと納得した次第です。
さて、このアンソロジーで紹介したい作品ですが、さすがにレベルの高い組織だけに迷ってしまいました。ここは代表に敬意を表して杉山さんの作品を紹介いたします。
会話/杉山平一
そんなこと
ないんじゃないですか
いいや
ないではないですよ
なるほど
あるにはあるのですね
そうして 二人は
有無(うむ)とうなづいた
最後の「有無」で思わず唸ってしまいましたね。有る、無い、という「会話」の果ての「有無」ですから、さすがにうまい作り方だなと思いました。もちろんこの裏にはあいまいな日本語と、あいまいな「会話」への批判が隠されていると思います。それをユーモアで包んで、ピシッを斬り込んでいく。さすがといか言いようがありません。
実はこの作品に刺激されて、同じようなものが作れるはずだと思い、試してみました。やはりダメでしたね。ここまで絞り込めません。会話もこれを超えることはできませんでした。それだけ練られた作品なんだなと、改めて思いましたね。
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