きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科 |
2001.12.8(土)
日本詩人クラブの12月例会(国際交流)・忘年会が神楽坂エミールで開催されました。今年の国際交流は文教大学教授の拝仙マイケル氏による「極端な時代−20世紀を振り返って」という講演でした。当然、第2次世界大戦にも触れた講演でしたが、なかなかおもしろかったですよ。特にユダヤ人に対する迫害では、国によって対応がまったく違ったそうで、これは私などには抜けていた視点だと思いました。
ルーマニアはドイツよりも先行してユダヤ迫害をやっていたこと、フランスも反ユダヤだったのに対してブルガリアや北欧3国はユダヤを救おうとしたことなど、今までと違った歴史の側面を知らされました。その原因にも論及して、国家や社会の伝統・価値観に左右されたという指摘は納得できましたね。
会場はご覧のように大入り。100人を超えていたんではないかと思います。私が詩人クラブに出入りし始めた10年前に比べると3〜4割は増えているんじゃないでしょうか。会員・会友830名近いというのは、こういうことかと思います。近い将来、1000人を超える団体になると予想しています。今から広い会場の心配をするようです^_^;
講演のあとは忘年会。こちらも大盛況でしたね。ハーモニカ演奏や指笛の演奏も飛び出して賑やかでした。
写真は恒例の新入会員の紹介です。当日出席した10名ほどが壇上に並びました。一番遠い人は九州から来ていましたよ。つくづく全国組織だなと思いましたね。会社は定年があっても、詩人クラブには定年がありません。場合によっては一生つき合う人たちです。よろしくお願いします。
○詩誌『ノワール』創刊号 |
2001.12.1 埼玉県新座市 田中眞由美氏発行 200円 |
田中眞由美さんと中村洋子さんの二人詩誌です。「勉強会をやってみよう」という発言から始まった詩誌のようです。「ノワール」とはフランス語で、闇や黒を意味するそうです。今まで見ようとしなかったものにも目を向けたいという発想からこの言葉を選んだ、とありました。
耳/中村洋子
風が髪を梳かしてくれる
子守唄のリズム
あら かあさん
いつ 風になったの
ゆうべ わたしの耳は眠らなかった
木々の梢で空のすすはらいをしたでしょう
ちかごろ こわいものがゆきかうから
気をつけて かあさん
風になってくれてほっとしている
「母より先に風になってはいけない」
真顔でいったでしょう
わたし 崖っ縁にいるのを黙っていたとき
朝 窓をあける
わくわくする
深く呼吸すると かあさんが
わたしのなかにはいってくる
「今まで見ようとしなかったものにも目を向けたい」という宣言≠ノ近い作品だと思います。「風になった」「かあさんが/わたしのなかにはいってくる」とき、そこには、今まで見ようとしなかったものがあると言えるでしょう。それは霊魂やオカルトといった次元のものではなくて、自分の精神の内側で「かあさん」が存在するのだと、私はとらえています。そういう視点の持ち方を教えてくれる作品だと思います。
「木々の梢で空のすすはらいを」するという表現にも惹かれますね。「かあさん」が何になるかを案じていた「わたし」は、「風になってくれてほっとしている」という見方。ここには作者の身の処し方が見えて、好感が持てます。この詩誌をできれば季刊にしたい、5年間は続けたいと後記で書く作者ですが、5年と言わず長く続けてほしいものです。そしてお二人の「今まで見ようとしなかったもの」が何であったのか、何を読者に見せてくれるのか、楽しみに拝見したいと思っています。
○個人詩誌『空想カフェ』7号 |
2001.12.1 東京都品川区 堀内みちこ氏発行 500円 |
朝陽のスープと風のパン/堀内みちこ
朝陽のスープに細菌が入っていないか
風のパンに銃弾が入っていないか
目を凝らし
光に透かしながら
食べるのが現代の食卓
お父さんやお母さんが子供のころ
食卓は賑やかで安心な場所だったのは
お父さんやお母さんが子供だったからかもしれない
朝陽は人間を愛しているから輝いているのだろう
風は何でも知っているが哀しみを語りたくないのだろう
大人は無心に食べている子供を見ながら思う
明日も食べられるかしら朝陽のスープと風のパン
「細菌が入っていないか」「銃弾が入っていないか」と「目を凝らし」ながら食べなければならない「現代の食卓」。まったく嫌な世の中になったものです。20世紀のモノの時代から、21世紀は心の時代へと夢見たことはつい昨日のことだったんですがね。「食卓は賑やかで安心な場所だったのは」遠い昔のことのように思えます。
「朝陽は人間を愛しているから輝いているのだろう」と思っていましたが、その裏では2000年に渡る宗教紛争があり、人間は牛たちに牛たちの肉を与えていたことを知りました。「風は何でも知っているが哀しみを語りたくないの」かもしれませんけど、考えてみれば全て人間の引き起こしたことばかりでした。風に洗いざらい話してもらわなくてはいけない時期にきているのかもしれません。そんなことを考えさせられた作品です。
○詩誌『地平線』31号 |
2001.12.15 東京都足立区 銀嶺舎・丸山勝久氏発行 600円 |
見てろよっ!/秋元 炯
その夜、バード(チャーリー・パーカーの愛称)
は、まるっきりだめだった。出を問違えたり。指
づかいがばらばらだったり、さんざんだった。演
奏を中断させたバードは「一時間待ってくれ。一
時間後にまた来るから」と言った。どういうしか
けがあるのか、とにかくそれから一時間後に、バー
ドは、まるっきり怖いほどの素面になって、引き
返して来た。『チャーリー・パーカーの伝説』(晶
文杜刊より)
少しずつ ゆっくり
時間をかけて入れるのが
Bは好きだ
地下室の便所
落書きだらけの壁に
肥った尻をもたれかけさせて
上着の内ポケットから取り出した
鉛筆より細い
華奢な注射器
目が
回り始めている
ふるえる手で
静脈に狙いをつける
ここで 手間取るのも好きだ
もう 奴の胴には
たっぷり溶液が入っている
そう たっぷりだ
小声で口に出してみる
ざまあみろ
できるもんなら
今 ここにやって来て
俺を止めてみろ
便所の戸を蹴破って入って来い
せせら笑う
ゼェゼェ咳き込みながら
笑っている
俺が
本物の怪物で
誰にも及びのつかない男であることを
今から証明してやる
ドアの隙間から
実にへたくそなピアノの音が
流れ込んで来る
今の俺みたいに
ボロボロじゃねえか
ドラムだけが
まともにリズムを刻んでいる
馬鹿正直なM
女の股倉に頭を突っ込むのが大好きなM
股倉臭い息を後ろから吹きかけながら
床板をビンビンふるわせる奴
待ってろよ
そうだ
実にいい
少しずつ
液が減って
俺様の体に入っていく
回り始める
ウォーッ
唸る
ドアを蹴飛ばす
しびれる
こんなにいいのは久しぶりだ
初めて女とやった時みたいだぜ
ドアを
このドアを
結局 蹴破って外に出ることにする
おい お前
さっき預けた 俺のサックス
早く 渡しちくれ!
すごい作品だと思います。なかなかお目にかかれない作品とも言えますね。覚醒剤か麻薬の注射でしょうか、人間の一面を見せられた思いです。前書きの部分もおもしろいですね。これがあることによって本文の意味が判り、想像力をかきたてることができます。「B」は「俺のサックス」と言っていることから「バード」ではないでしょう。しかし不思議に重なって、おもしろい効果を出していると思います。
もちろん書かれていることは犯罪です。罪を犯すのも人間の一面という立場に立っての鑑賞になりますが、個人的な喜怒哀楽の作品の多い中で特異な意味を持っていると言えるでしょう。
○詩誌『こすもす』41号 |
2002.1.10 東京都大田区 蛍書院・笠原三津子氏発行 450円 |
古里/石田天祐
古里に帰る夢を見た
家の前に立つと
父と母が出迎えてくれた
二人の声は華やぎ
仕草も若々しかった
私は連れの女学生を紹介した
おしゃべりな猫が現われ
足もとでじゃれついた
私は女学生を案内して
家のめぐりのミカン畑や
古里の野や森を歩いた
丘に登ると
浜名湖の白い湖面が
遠くに見えた
山沿いの道を辿り
村外れの共同墓地に来ると
老人の一行に出会った
懐かしい伯父や伯母の姿があり
何度も声を掛けたが
みんな蒼い顔をして見返すだけで
押し黙ったまま通り過ぎた
山鳩が鳴き
私は夢から眼醒めた
眼蓋に涙が溜まっていた
四年前に家を出た妣(はは)を追い
九十六才で旅立った父の
初盆会がひと月後に迫っていた
(平成十三年七月十五日)
作品を読んで私も何やら懐かしい気持になりました。個人的には私の故郷はどこか迷ってしまいます。生地北海道も、幼少の頃住んだ福島県いわき市も、少年時代の静岡県御殿場地方も全て故郷のように思っています。それらの土地を思い浮かべながら鑑賞しました。作者の「古里」も含めて、どこの地方であろうと故郷は懐かしいものだなとつくづく思います。
浅学にして「妣」という意味が判りませんでした。辞書によるとひ≠ニ読み死んだ母、亡母≠ニいう意味だそうです。「四年前に家を出た」とは、4年前に亡くなったということだったんですね。美しい使い方だと思います。思わぬ勉強もさせてもらった作品です。
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