きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
kumogakure
「クモガクレ」Calumia godeffroyi カワアナゴ科


2001.12.27(
)

 先輩の定年退職祝賀会がありました。先輩はここ数年、定年退職をする人たちに事務説明をするという立場にあったんですが、とうとうご本人の退職となったわけです。
 以前は定年退職者も少なかったで、例外なく祝賀会が行われていました。しかしここ10年ほどは毎週のように定退者が出るようになり、定退者も辞退するようになったので少なくなってきました。そんな中でも重要な人物、まわりから慕われている人たちは周囲に促されてやらざるを得ないのです。先輩もそんな一人で、ずい分参加者が多かったですね。以前勤務していた職場の人たちも大勢集って、呑めや歌えやで大騒ぎでしたよ。
 私は書かなければいけない原稿があったので、まったく呑まないで一次会だけで帰ってきましたけど、惜しいことをしたなと思っています。でも、グッと堪えて原稿を優先しました。我ながら、成長したなと思います^_^;



秦恒平氏著『湖(うみ)の本』エッセイ24
umi no hon 24
2001.12.15 東京都西東京市 「湖(うみ)の本」版元発行 1900円

 「おもしろや焼物・やきもの九州を論ず」という副題が付いています。「おもしろや焼物」は、焼物について新聞・雑誌に発表してきたものをまとめたものです。「やきもの九州を論ず」は、かつて平凡社から刊行された『日本やきもの旅行』という本の、どうも焼物の写真と文が組み合わさっているようですが、文章だけを抜き出したものです。秦さんの焼物に対する思いがすべて込められた一冊ではないかと思います。
 焼物というと、門外漢の私には高価なもの、芸術的にも価値が高いもので素人が手を出してはいけないものという印象が強いのですが、ある面ではまさにその通りのようです。しかし秦さんは、それは本当にいいことなのかという提言をしていました。焼物ブームに乗った窯元の研究不足、悪いものでも高価な値段を付ける体質、それらをありがたがって求める通人≠フ意識の低さ、それらを問題にしていました。で、対処は、写真集に頼らず実際に手に取って、自分の感性を信じること、飾ることを目的とせず実際に使用することを目的として購入すること、などが骨子でした。
 陶芸作家についてはかなり手厳しい意見が続きますが、彼等を評価するにあたって「有名には慎重、無名には大胆」という言葉が出てきて、なるほどなと思いました。これは焼物や陶芸作家に限らず、文学、造形、食べ物などに当てはめていると書かれています。秦さんの思想の一端を見せている言葉ではないでしょうか。
 過去20年ほど書き溜めた焼物に関する文章ですから、その詳細をここですべて紹介するわけにはいきませんけれど、焼物に興味をもっている方、それで生計をたてている方には必読の書だと思います。ご一読を薦めます。



詩誌『帆翔』25号
hansyou 25
2001.12.25 東京都小平市
帆翔の会・岩井昭児氏発行 非売品

 葱の花/長野 規

 ゆるやかな菜園の道の勾配を、人がのぼってくる。中年の、
ネクタイをしめた洋服の男が、ゆっくりとこちらへ向かって歩
いてくる。逆光なので表情はわからないが、懐かしそうな様子
で、わが家のほうに近づいてくる。
 ガラス戸越しに、菜園の乾いた土の畝に葱がしろい花をつけ、
虫がとんでいるのが見えた。畑と道は、太い針金を張りわたし
た等間隔の木杭で仕切られている。会釈のないのは、縁側に立
つぼくの姿に気がつかないからだろう。
 不意に、ぼくの体で、ぼくと男が入れちがった。ぼくは軽く
なった、ぼくは死んだのだ。こころ優しい無言の弔問者と、ぼ
くは入れちがった。ずいぶん呆気なかった。ずいぶん楽に死へ
跳べた。ぼくの体から、ぼくが出ていく。

 ゆるやかな菜園の道の勾配を、人がおりていく。ぼくは死ん
だのだから、懐かしい男が見えるわけがない。黒っぽい洋服の
後ろ姿と葱の花が写ったのは、ぼくの体温がまだ温かかったか
らも知れない。

 作者の絶筆です。この作品を手渡した後に亡くなったそうです。死を自覚する詩人の作品に圧倒されました。作者は元集英社専務、「週刊少年ジャンプ」の初代編集長だったそうですが、本質的には詩人だったように思います。私がいずれ同じ立場に置かれて、ここまで冷静に書けるかどうか…。ご冥福をお祈りいたします。



隔月刊詩誌
『サロン・デ・ポエート』
235号
salon des poetes 235
2001.12.25 名古屋市南区 佐藤經雄氏発行 300円

 日常/野田和子

何も起こらず 一寸倦んだ日常を
一枚一枚重ね
うつろう季節を 一束二束と束ねる
故紙のように

毎朝の新聞に漂う硝煙と血の匂いが
コーヒーの香りと交りあう
たくさんの死者 たくさんの破壊と喪失の
日常の世界がある
わたしはしばしば眉根を寄せ
心をさわがせる が
やがてそれも平穏に吸い込まれる

禍事が起きて
突風にわたしの平穏がめくり剥がされてみると
あれはかけがえのない退屈だったのだと
しみじみ思われる
新しい日常になじめば
別の平穏が始まるだろうか
わたしは年の取り方をまた一つ学ぶ

冬に向かう野の片隅の
アキノキリンソウの花が目にしみる

 それこそ日常≠うまく表現している作品だと思います。「心をさわがせる が/やがてそれも平穏に吸い込まれる」ことはしばしばですし「わたしは年の取り方をまた一つ学ぶ」というフレーズも謙虚で好感が持てました。最終連で視点を変えていることも成功していると思います。
 「禍事」はわざわいごと≠ニ読んでよさそうですけど、手元の辞書には載っていませんでした。「禍」と「事」を着けただけですから造語とも言えませんが、いい言葉だと思います。この場合は具体的な事柄でなく、この言葉の方が奏効しています。言語感覚も優れた詩人だと思いました。



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