きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
mongara kawahagi.jpg
新井克彦画「モンガラ カワハギ」




2001.2.6(火)

 夕食が済んで、さあ、これから同人向けの通信作りにかかろうとしたところに電話が入りました。PTAの役員会をやってるんだけど、どうして来ないの? ええっ? それって明日でしょう? いいえ、今日です、すぐ来てください。
 明日は私に関係のない広報委員会の会議で、それと間違えてノートに記録したようです。あーぁ、ドジだなあ。平謝りでしたよ。
 PTAも来月で任期切れになります。残すところ、あと2回ほどの会議と卒業式、PTA総会のみとなりました。長かったなあ。自治会役員とダブルでしたから、思っていたよりシンドかったです。でもまあ、これで義務は果せたわけだから、爽快な気分も多少はありますね。4月からこの二つが消えると思うと、本当にうれしいです。もちろん、おもしろいこともいっぱいあったけど、ダブルはいけません。どちらも一応、選挙のかたちをとっていますけど、実質は根回しですからね。根回しする人は、そのへんも考えてほしいものです。



詩誌『驅動』32号
kudo 32
2001.1.31 東京都大田区
駆動社・飯島幸子氏発行 350円

 剰え/たに みちお

程々にしたら
いつも耳裏でそんな声がする
確かにそうなんだが
まだ何か出来ると思いつつ
無いものねだりを続けてきた
貶されれば脹れっ面をし
煽てられるといい気になっている
こんなあまったれが何時しか
心の中に住みついてしまった
執念とか生き甲斐などとは言えないし
道楽とも少し違うようだ

いとけない
かがよう
くぐもる
さみどり
しどけない
言葉遊びではない
辞書に首ったけである
今夜は発想が冴えて
一気に詩が出来そうだ

いいかげんに降りて来て冷めちゃうわよ
夕飯を告げる女房の声が
階段からかけ上がってきた

 浅学にして「剰え」が読めませんでした。あまつさえ≠ニ読んで、おまけに≠ニかその上≠ニいう意味なんですね。これが理解できないと、この作品は判らないことになります。それにしても、50を過ぎた私でも知らない言葉が多く出てきます。「いとけない」「しどけない」ぐらいは判りますが、後の3つが不明でした。「かがよう」は、きらめきゆれる様子、「くぐもる」は口ごもること、「さみどり」は早緑と書いて新鮮な緑のこと。すべて「言葉遊び」に係る形容詞であることも「辞書に首ったけ」で(^^;; 理解することができました。
 そして極め付けは「剰え」が「夕飯を告げる女房の声が/階段からかけ上がってきた」に係っているんですね。もちろん第1連は詩についての形容です。うーん、おもしろい。ヤラレタ!と思いましたね。



個人詩誌『思い川』9号
omoigawa 9
2001.3.3 埼玉県鳩ケ谷市
桜庭英子氏発行 非売品

 雨季

あたりが湿ってきたので
ほんのすこし
秘めごとを打ち明けた

流れていった水のこと
岸辺に咲いていた花のこと
散らしてしていった青い風のことなど
けれども なにひとつ
語り尽くせぬうちに
いつだって人は消えてゆくのだ

飲み込んでしまった言葉の重さに
立ち上がれない六月

雨のようにシャンソンが降り始めて
背中がひどく寒い
となりのテーブルでは
若いカップルが賑やかな恋を振り撒いていた

ティールームの壁で
頬づえをついているカシニョールの女の
きんいろの髪もしっとりと濡れそぼち
窓の外には傘の花が咲き乱れている

店のドアベルがいっとき激しく鳴って
またひとり
私の雨季に入ってきた

 第1連がすばらしいですね。雨季に「秘めごとを打ち明け」る気持というのは、判るような気がします。それもジメッとした気分で、ではなく、しっとりと、という言い方が合っているように思います。そのせいか、この作品は雨季という季節を設定しているにも関わらず、どこか明るい雰囲気を感じます。梅雨としなかったからでしょうか。「岸辺に咲いていた花」「シャンソン」「賑やかな恋」「カシニョールの女」「傘の花が咲き乱れている」などの言葉からも明るさを感じます。
 「語り尽くせぬうちに/いつだって人は消えてゆくのだ」というフレーズ、「私の雨季に入ってきた」というフレーズも素直に受けとめられます。特に「私の雨季」という言葉は自立している言葉で、作者のモノの見方、感じ方まで伝える作用をしているのではないでしょうか。今年の雨季≠ノ、もう一度読み返してみたい作品です。



 
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