きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
mongara kawahagi.jpg
新井克彦画「モンガラ カワハギ」




2001.2.18(日)

 日本詩人クラブの理事選挙管理委員会がありました。最高得票116票の中村不二夫さんをはじめ、30票程度の人まで20人ほどが理事候補として残りました。この中から本人の承諾を得た15名が、5月の総会で承認を得て正式な理事となります。私も残念ながら(^^;75票・6位で入選しちゃいました。断る理由もないので受諾しています。
 正式な候補者は近々、詩人クラブのHPにアップします。得票・順位はそちらをご覧になってください。それにしても気になるのは、国勢選挙じゃないけど投票率です。40%弱というのは、やはり少ないと思いますね。他の団体も似たようなものですし、地方の会員にとっては誰を選んだらいいのか顔も知らない、という状況もあるでしょう。理事会としてはその辺も考えなければいけないし、会員は会員の義務・権利として受けとめてほしいと思います。中には白票の人もいました。それはそれで立派な意志表示です。理事会は白票の意味を謙虚に受けとめる必要があります。しかし、それに反して、返信用切手まで貼った封書を同封しているのに、なしのつぶてというのはいかがなものでしょうか。お考えいただければと思います。



詩誌『パンと雲』18号
pan to kumo 18
1999.1.16 東京都杉並区
パンと雲の会・あいはら涼氏発行 500円

 物心/あいはら涼

物を捨てるのは好き
踏まなくなった青竹、みやげ物の人形
別れた恋人との写真
その中の笑っている昔の私は特に

捨てられない三〇三号に入院中の高橋清子さん
かみ終えたティッシュ、一昨日のご飯粒
切った爪

「立ち入ったことを言うようですが
その爪は捨てた方がよくありませんか?」
ベッドサイドでリハビリをしながら私は尋ねる
「とんでもない 物を粗末にするなんて」
澄んだ声で清子さんは答える

「そこに腰をおろしてもいいですか?」
「ダメよ、あの子が寝てるじゃないの」
ベッドの上のあの子が私には見えない

「昔、乳児院前に五女を置去りにしている」
申送り記録にそうあるけど
結局今でもベッドには あの子はいる

いる いらない 捨てる 捨てない
私の所へ物はどうして集まってくるのだろう?
清子さんはどうして捨てられないのだろう?

鶴みたいな清子さんの足を屈伸させながら
こんなことを考えている私は
いるかな?いらない?

 「清子さん」の人間像がよく描けていると思います。「五女を置去りにして」も、「ベッドの上のあの子が」見えるという幻想は、なにか、人間の本質を知らされる気がします。それらをふまえた作者自身の「いるかな?いらない?」という問いに、作者の客観的な目を感じます。仕事の上での、女二人の会話、何気ない雰囲気の中に、作者の深い洞察と、人間とはなんだろうという基本的なものを考えさせられました。



詩誌『パンと雲』23号
pan to kumo 23
2000.8.19 東京都足立区
パンと雲の会・長嶋南子氏発行 500円

 線路/多賀恭子

夜更けに
出ていこうとする
また道路で
転げ回るのだろうか

三十五年前の夜
川を見に行くと言って
家を出たね
泣きながらあとを追った
あの時の恐怖が
今は……ない

夜道の向こうに
終電車の光
どうしても近づけない
そう言って
戻ってきたね
あれから一年
何もわからなくなってあなたは
暗い線路の向うに
行ってしまった
母という名の
謎を残したまま

 正直なところ、かなり難しい作品だと思います。「母」が亡くなったのか、失踪したのか、その区別がつきません。あるいは精神的に「行ってしまった」のか。「何もわからなくなってあなたは」とありますから、いわゆるボケと取ったほうがよいのか。それらのいずれかであろうし、場合によっては全ての象徴と取るべきなのかもしれません。
 しかし、それらを越えて、この作品には母娘の深い情を感じさせます。「終電車の光/どうしても近づけない」というのは、特殊な関係のようにもとらえられますが、実は肉親の本質なのではないかと思います。道連れにすることが愛情なのか、思いとどまることがよいのか、簡単には言えません。言えないだけに肉親にしか理解しえないものがあるでしょう。しかも、それは我々すべてが持っているものです。そういう意味でも普遍的なテーマと言えましょう。読み違いかもしれませんが、そんなふうに拝見しました。



 
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