きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラ カワハギ」 |
2001.3.6(火)
社員教育のため出張してきました。私の勤務する会社は製造業ですから、様々なトラブルが起きます。それを理論的に考える手法を教えます。教えるのはインストラクターの仕事。私の仕事は、そのインストラクターをサポートし、指示を与えることです。実にツマラナイ(^^;;
やっぱり、直接、受講生と接したいですよね。ワンクッションあると、どうも歯がゆい。でもまあ、自分が前面に出ては後進が育たないから、グッと堪えますますけどね。うぅ、ホントはオレが伝えたいことがイッパイある! それをやっちゃあオシメエよ、と思いますけど、辛いですね(^^;;
○盛山千登世氏詩集『大晦日の午後に』 |
2001.3.10 静岡県浜松市 樹海社刊 2300円 |
空模様
近くの材木屋の前庭に
腰かけにちょうどいい切りかぶが
いくつも並んでいて
一つ三百円
何という木か知らないけれど めっぽう
重くて
自転車のうしろの
荷かごにおさめると
よろよろ ハンドルをとられて
さまようように歩いて
家に戻ったことは
いいことだったか
木かぶを抱いて
年りんをかぞえる
一年をあっさりとひとつの線で
ぐるり描いて
65本そろっている
板になれず 支柱にされず 炭にも
焼けず だらだらの丸太だから
ぶつ切りにされて 木かぶは
使いものになれなかった気軽さで わたしを
のせて きのう 昔のクラスメイトの弔いの
黒くて長い列の中にいた 高台の 南向きの
絵のように新しい家の 明るい座敷で冷たく
なっているその人の髪に ももいろの カー
ネーションを一りん置いた その人の死因の
肝ぞうのあたりをなぜてみる 暗いところ
星のような斑点がいくつも漂っていたという
あちらとこちら 生とか死とかに振り分けて
線を引く この
木かぶは もう死んでいるのですが
梅雨入り
朝からの土砂降り 空模様で
湿ったり乾いたりする ひと押しすれば
ごろごろと傾斜にゆるく
ころがって やがてわたしを
追い抜いていく
「もう死んでいる」「木かぶ」と「昔のクラスメイトの弔い」がうまく組み合わされている作品だと思います。特に「昔のクラスメイトの弔い」の下りが散文詩の形式になっていて、構成の上でも工夫がされており、「木かぶ」と「昔のクラスメイト」の二重構造を無理なく表現する手法として優れていると思います。
「空模様」というタイトルもいいですね。本論からちょっと視線を外していて、心憎いタイトルだと思います。改行のし方にも味があって、勉強させられることの多い詩集でした。
○詩誌『獣』54号 |
2001.3
横浜市南区 獣の会・本野多喜男氏発行 300円 |
連詩 酒
駅前/多喜男
どろりんとした どぶろくが
どぶろく よりも混濁した
粉塵の空気中で 泡立ち
ホルモン焼き 豚の煮込みで
騒ぐ
しょちゅう ストライキにんにく臭
に包囲され
眼底や 服装にまで
滲みついた あの奇妙な
明るさに満ちていた人たちの記憶
酔い心地/きよし
酔ったあとの醒めは
禍と苦難を起こし
ぼくの孤独は
盃で三杯目が丁度よく
血を暖める
指す/けんさく
窓に影
手が動く
コップを灯りにかざすと
死んだはずの親父が笑っていた
あの手だ
十五年も前の大晦日
将棋を指す手が
どうだ と言わんばかりに酒にいく
盤上駒の行方に
王手がかかる
が党/知次
もう半世紀をこえて
米粒をつめこんできたので
ぼくの腹の中はほどよく醸造された酒でいっぱいだ
あいつもこいつも腹に酒をかかえ
どっちが旨いか
俺が俺がと
が党になって
コンクリートの
瑞穂の国で
生きている
最近、あちこちの詩誌で連詩が流行りのようですが、私には難しい作品が多く、なかなか感想を書くまでには至りませんでした。しかし、この連詩はイメージが膨らみます。なにせ「酒」ですからね、私の最も得意とする分野です(^^;;
本野多喜男氏の「駅前」は「あの奇妙な/明るさに満ちていた人たちの記憶」というフレーズになつかしさを覚えました。1949年生まれの私は、直接、戦後の混乱を知りませんが、物心つく頃まで混乱を引きずっていたと思います。その記憶と「あの奇妙な/明るさに満ちていた人たち」とが、うまく私の頭の中で結び付いています。
ひらたきよし氏の「酔い心地」は、「ぼくの孤独は」というフレーズに惹かれました。そうか、酒を呑むという行為は「孤独」なんだ、と改めて気付かされます。仲間通しでワイワイ呑んでいても、確かに酒を口に運んだ一瞬に「孤独」を感じることがあります。それとも、ここでは「酔ったあとの醒め」を「孤独」として表現しているのかもしれませんが…。
うめだけんさく氏の「指す」は、タイトルがうまいですね。「酒」という命題で酒を主題にしないという手法は、なかなかできないことだと思います。しかもきちんと酒の位置が収まっているというにのは、読んでいる途中で、ヤラレタな、と思わず唸ったほどです。短い作品の中でも、時間の処理と空間の処理がこれほどうまくできるという見本のようなものだと思います。
新井知次氏の「が党」は、最初、意味がよく判りませんでした。が党? そんな党があったっけ? 「俺が俺が」でやっと納得。つい、自分のことを言われたようで赤面してしまいました。私も「瑞穂の国で/生きている」ひとりですから、「腹に酒をかかえ」て「が党」になっているのかもしれません。
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