きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラ カワハギ」 |
2001.3.10(土)
日本詩人クラブの3月例会がありました。講演は鈴木亨氏の「田中冬二の人と作品」。詳細な年譜が提供されて、作品「くずの花」程度しか知らなかった私にはいい勉強になりました。たった4行の「くずの花」に2年の歳月をかけたなんて、信じられないようですが、判る気もします。参考までに挙げておきましょう。
くずの花/田中冬二
ぢぢいと ばばあが
だまつて湯にはひつてゐる
山の湯のくずの花
山の湯のくずの花
なかなか書けそうで書けない作品ですね。リフレインは冬二の得意とするところだそうで、この作品もリフレインがなければ面白みも半減するでしょう。
講演中の鈴木亨氏 |
会場からの質問で面白いのがありましたよ。冬二は春と夏が好きだったそうです。それを受けて「なぜ冬二というペンネームだったんでしょう?」。これには鈴木さんも絶句。爆笑でしたね。理由はよく判らないそうです。それより、質問者の発想にマイリマシタ。
○弓田弓子氏詩集『羽たち』 第5次ネプチューンシリーズg]Z |
2001.3.1 横浜市南区 横浜詩人会刊 1200円 |
ぴかぴかに
戦後
四十六年
日本軍の
慰安婦にされた
韓国の女性が
沖縄の
小さな家で
亡くなったことを
映像で
見た
土間の
台所には
茶碗
鍋
しゃもじ
はし
スプーン
おろしがね
数少ない
すべてが
ぴかぴかに
ぴかぴかに
磨かれて
あった
この作品では「慰安婦にされた/韓国の女性が」「亡くなった」とき、なぜ「数少ない/すべてが/ぴかぴかに/ぴかぴかに/磨かれて/あった」のかを考える必要があると思います。磨くことによって、自分が受けた恥辱を洗い落とすということをしなければならなかった女性に、思いを馳せる必要があります。その想像力がなければ、この作品は成り立ちません。
そういう意味では、読者に作品への参加を求める厳しい作品と言えましょう。作者自身も作品上には「見た」という言葉でしか顔を見せていません。あとは淡々と現象を述べているだけです。それだけに作者の怒りもよく伝わってくると思います。当時の「日本軍」とは、作者にとっては兄の世代、私にとっては父の世代であることも、合わせて自覚しておく必要があります。短い作品ですが、民族の歴史と人間の狂気について考えさせられる作品であると思います。
○詩誌『燦α』7号 |
2001.2.16
埼玉県大宮市 二瓶徹氏発行 非売品 |
未来/昼間初美
未だ来らざるもの
東洋人は未来に向かい合って立っている
バック・ザ・フューチャー
欧米人は未来に背を向けて立っている
私は未来を側面で感じている
もう一方の側面で過去を
正面で感知できる半分の現在
背面に全く知らぬ間に流れてゆく現在という
時の船
私は現在に立っているのだが
気付くといつの間にか
未来から過去に風景が流れている
発想のおもしろい作品ですね。「東洋人」と「欧米人」の対比もいいし、「側面」という発想もおもしろい。身体全体で時間を感じ取るというのは、なかなかできることではないと思います。作者の特異な感性を思うと、これからどんどん書ける人ではないかと感じますね。
○詩誌『燦α』8号 |
2001.4.16
埼玉県大宮市 二瓶徹氏発行 非売品 |
私の名前/YAKO
あなたに名前を呼ばれて振り返る
ただそれだけのことが嬉しい
私の名前が
もっと可愛いかったらいいのにと
呼ばれるたびに思うけど
今まで嫌いだった自分の名前が
あなたの声で愛しく響く
あなたが私の名前を呼ぶたびに
私は私の名前を好きになる
非常に素直な作品で、私も若い頃を思い出してしまいました。自分の名前が嫌いだったり、作者と同じように好きになったり、そして今は何の感慨もなく記号としか考えなくなったりと、名前ひとつをとってみても人間の変遷に伴って受け取り方が変わっていきますね。作者はそういう意味では、いま一番いい時期にいるのではないかと思います。いろいろな経験をして、大きく心広い人になってほしいと願っています。
[ トップページ ] [ 3月の部屋へ戻る ]