きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
mongara kawahagi.jpg
新井克彦画「モンガラ カワハギ」




2001.3.13(火)

 中学校PTAの役員会がありました。2000年度最後の役員会です。うれしいですね、これが最後かと思うと、ほんとうにうれしいです。いろいろ至らない点はあったと思うけど、なんとか義務は果した、という思いです。4月に行われる総会の段取りなどを決めて、解散しました。一抹の淋しさ、、、なんて全然ない(^^;; 生徒に大きな問題もなく事故もなく、正直なところホッとしています。



島崎豊氏詩集『魚の歌』
sakana no uta
1984.1.15 東京都世田谷区 昧爽社刊 1800円

 林の中で

青年のように
樹々を通りぬけてゆく
萎えた手を内懐に
あたかもピストルを取り出す仕草で
空の青さをさえぎっている

風が止んだ
世間と云う仕組まれた幻想
そんなものは振り捨てて
この自然の搦手から
一匹の哺乳動物となって
呼吸をする

静かだ
何にも彼もが沈黙し
ただ心臓の鼓動だけが
冷却された大気の中で
大きな音を立てている
この澄んだ空の
輝きの下
私はつぶやくのだ
「全ては終ってしまったのか」と
もう少しだけ
空が暗ければ
お互いの顔が見えただろう
もう少しだけ
早く
時が流れたならば
人間と出会えただろう

冬の陽射しよ
あなたは
私にとって
明る過ぎるのです

 転記する際に、連の切り方を迷いました。2〜4連は改行がなく、ひとつの連かもしれません。ちょうど頁の区切りと重なっていますので、私の連の解釈は間違っている可能性があります。
 それはそれとして、静かな中にも作者の強い意志が感じられる作品ですね。「ピストル」という単語がそう感じさせるのかもしれません。私は「空が暗ければ/お互いの顔が見えただろう」というフレーズにも作者の意志を感じます。普通は空が明るければ=uお互いの顔が見えただろう」とするのですが、そうではありません。暗いことによって逆にお互いの顔を見る、という姿勢に強さを感じます。見えるときは何をしなくても見える、見えないときにこそ見る努力が必要、そんなことを示唆しているように思えてなりません。

 それは最終連にも表れているように思います。作者は私と同年代です。遡ると34〜35歳頃の作品です。同じ時代を同じ年齢で生きた、青春の感覚をも感じます。



詩の雑誌『鮫』85号
same 85
2001.3.10 東京都千代田区
<鮫の会> 芳賀章内氏発行 500円

 光学顕微鏡/芳賀稔幸

はたして、正しいのだろうか?

みまごう彼方に
撮らえられるはずのうごめきを
しかと、たしかめるために

二度と、帰れそうにないくらい
遠い彼方まで、引きずり込まれてしまった

しかし、何に煩わされることもなく
順風満帆の日々をかさねているにちがいない

あの時代も
光学顕微鏡で追い続けていたのは
はてしのない影の
うごめきであったことに差はないのだから

みずから、誤りを知ることで
やっと、見たかったうごめきに
たどりついたわけだ

そして案外、むしばまれたこちら側を
のぞき見ているのだろう

 光学顕微鏡はおおよそ1000倍程度まで拡大するのに適しています。倍率をどんどん上げていくと、肉眼ではとらえ切れない物質の形状や「うごめき」が判り、現象を理解するのに大きな手助けをしてくれます。そして、ふと「二度と、帰れそうにないくらい/遠い彼方まで、引きずり込まれてしまった」感覚にとらわれてしまうのも事実です。この作品はそこが良く書けているなと思いました。科学における詩的世界の具象化をうまく書いています。
 それだけなら、おそらく私にも書けるでしょう。すごいと思うのは最終連です。見られているはずの物質が、実は「むしばまれたこちら側を/のぞき見ている」という発想に私は至りませんでした。作者の作品をそれほどたくさん拝見しているわけではありませんが、芳賀稔幸詩の世界にはいつもそれを感じます。見る者と見られる者、両者の視点を併せ持つことはなかなかできないことと言えましょう。科学と詩の融合とともに、複眼の視線を持つ作者に畏れを感じます。



 
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