きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラ カワハギ」 |
2001.3.20(火)
春分の日でお休み。しかし、朝から晩まで自治会デーでした。新旧役員の引き継ぎやら、4月1日に予定されている春祭りの準備、その実行委員会と、朝8時から夜10時まで休みなしでした。これなら会社に行ってた方が楽でしたね(^^;;
でもまあ、次期役員は決まったし、旧役員は春祭りまでがんばればお役ご免ですからね。後ろ指を指されないようにがんばります。
○詩誌『あにまる・ラヴ』7号 |
2001.3.5 大阪府茨木市 あにまる・ラヴ舎笹野裕子氏発行 500円 |
耐寒マラソン/やまもとあつこ
校庭をぐるぐるまわるマラソン
後ろの方を走るリミちゃんとわたし
追いこす気持ちもなくなったころ
リミちゃんが教えてくれた
こうやって 左手 前にのばして
手のひら 上にむけて
片目 つむって
ほら
手のひらで
小林君が 走ってねやろ
ほんまや
先頭を走る小林君が
わたしの手の上で
小さくなって走っている
というよりも
ゆれているわたしの手の上で
一生懸命とびはねている
とびはるている
な
おもしろいやろ
小林君 なんで とびはねてますか
ずんずん
ずんずん 問いつめる
はねる はねる 小林君
クシュクシュ 笑う リミちゃん
風が
頭の中でピタッとやんで
巨大な手のひらは
小林君を地面にもどしたのだ
おもしろい視点ですね。お釈迦さまの掌の上の孫悟空のようなのかもしれません。「小林君 なんで とびはねてますか」という問いかけも、ほのぼのとして好感がもてます。小学校の校庭なんでしょう、小学生の生き生きとした動作が眼に浮かぶようです。
最終連がまたいですね。「小林君を地面にもどした」というフレーズは、「わたし」のあたたかい心を滲みだしており、作品の深さを表わしていると思います。さわやかな、あたたかい作品で、思わずほほえんでしまいました。
○詩誌『象』101号 |
2001.3.25
横浜市港南区 「象」詩人クラブ・篠原あや氏発行 500円 |
産屋/加瀬
昭
日の出を迎えるように
祈りにも似た思いが生まれはじめている
俄か造りの産屋が建てられる
女が産気づき
東の空が明るむとき
それはやってくる
夕暮には赤々と燃えて
隠る
暗闇を潜り抜けて
生き生きとよみがえるとき
宇宙の器の蘇生につれて
器の女は照応する
新しいいのちは
祖の甦りで
器に篭もるとき
その儀式がはじまる
満潮の滴りを
胸ときめかせて待つ
待つとはこのようにして緊張を強いるものか
待つものと
それを待ちわびるもの
一本の綱がはられている
男が女に託すもの
女が男へのぞむもの
産屋からの神秘な音を
日の出がすがすがしく輝くとき
聞えてくる
その符号に男も女も狂喜するのは
器の中で生きることの歓びであろうか
久しぶりに「産屋」という言葉に出会いました。もちろん見たことはなく、知識として知っているだけですが、昔はあったようですね。出産を不浄ととらえた時代の、特別な小屋や部屋のことのようです。しかし、この作品では作者はまったく不浄ととらえていません。今の時代では当然のことですけど、そんな時代もあったことを彷彿とさせます。
この作品には、現代への批判も込められているのではないでしょうか。「器の中で生きることの歓び」という、本来、人間が持っているささやかな満足感を忘れて、遺伝子操作の領域にまで踏み込んでしまった人間への、詩人としての警告のようにも受けとめました。不浄という認識で「産屋」を作ったことは、良いことか悪いことか、簡単には判断ができません。しかし、その時代と現代の「産屋」に大きな違いはないのかもしれません。考えさせられる作品だと思います。
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