きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラ カワハギ」 |
2001.3.21(水)
職場の懇親会で花見をやることになって、下見に行ってきました。従来は会社の近くの桜の名所でやることが多かったんですが、今回は私が幹事です、そう簡単にはいきませんよね(^^;;
会社から車で1時間、静岡県御殿場市にある「御殿場高原ビール」でやることにしたんです。いわゆる地ビール≠フ会社です。パンフレットを見たら、桜並木が載っていましたんで、決めちゃいました。
数年前に1、2度行ったことがありましたから、様子は判っていたつもりだったんですけど、かなり変わっていましたね。建物が増えて、ビールの種類も増えていました。記憶では4種類だったビールが5種類になっていました。下見だから全部呑もうと思ったんですけど、3種類で酔ってしまいましたね。ナサケナイ。でも、50名ほどを引率して行きますから、ルートはしっかり確認しておきましたよ。行きはネ。帰りは酔ってて、覚えてない(^^;;
○國中治氏詩集『金色の青い魚』 |
2001.3.30
東京都新宿区 土曜美術社出版販売刊 1900円+税 |
雪の日の底
雪がふると
子どもの遊びは
ふえたり へったりする
おとなはいつものように
あそんだり あそばなかったりする
街には黒もめっきりふえる
手袋の
うえから手をにぎり
重みも弾力もないまま
しめやかに いっしんにしみてくる
いま それは冷気だ
手袋の
そとは
からっぽ
はいいろ なのに まぶしい そら
おおきな まるめた ちりがみ のような ゆき
正直なところ、長くて難解で、心象風景を描いた作品が多く、読みとおすには相当な労力が必要な詩集だと思います。なぜ難解になるかは、一色真理さんの解説が丁寧でよく判ります。一読して一色さんの解説を頭に入れて、もう一度読んでみるのがよいかもしれません。
そんな作品の中で、私の頭でもすぐに理解できたのが上述の作品です。作者の物の見方や感じ方がよく表現されていると思います。例えば「ふえたり へったりする」「あそんだり あそばなかったりする」というフレーズで、ああ、この人は物事を一方的には見ない人なんだな、と理解しました。「いま それは冷気だ」というフレーズでは、それまでの具体的な現象を「冷気」という抽象的な言葉に昇華させて、言葉に対する感覚を知ることができます。
言葉に対する感覚という意味では、最後の2行は1文字空けを多くとって、雪の雰囲気を出していると思います。タイトルの「雪の日の底」の底≠ニいう言葉は意味深長ですね。空から見れば、地表は底になるわけで、それにこだわる作品は他にも散見できます。そんな感覚も作者の作品を鑑賞する上でのキーになるのではないかと思います。いずれにしろ、1度や2度の読みでは鑑賞しきれない詩集と言えましょう。現代詩の新しい方向を探るには、何度でも読み直す必要のある詩集です。
○詩誌『すてむ』19号 |
2001.3.25
東京都大田区 甲田四郎氏方・すてむの会発行 500円 |
水/尾崎幹夫
睡れないぼくは女にたのむ
ふかいふちのなかに浮かんで
音も重さも感じないなら
苦しさがきえていくだろう
ぼくの水になってくれと
ためらいながら水になった女のなかに
ぼくはぼくをもぐりこませる
これで狂わないですむ
しずかに窒息していける
水のなかに空
水のなかに地面
全身をひたされながら
水にまざって
それでいっそうあんどして
水とも涙ともわからない女のなかから
顔をだし
睡る蓮になっている
男になんてものは、どんなに強がりを言っても、女性の前ではついつい甘えてしまうものです。結局、「水」となってくれた女性の中で、「全身をひたされながら」存在しているに過ぎないのかもしれませんね。そして「狂わないです」み、「しずかに窒息していける」安心感に浸っていられるのかもしれません。
言葉の上では「睡る」という使い方がうまいと思います。最終行の「睡る蓮」はもちろん睡蓮から取っています。この言葉が使いたくて、最初行に「睡れない」を持ってきたのだろうと想像しています。それにしても「水」と「睡蓮」の組み合わせはさわやかで、さすがは尾崎さんだと思いますね。
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