きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラ カワハギ」 |
2001.4.30(月)
終日HPの更新に明け暮れました。3日間の日記を一日で書くのは、結構キツイ(^^;;
でも何とか今日にこぎ着けてホッとしています。しかし、アップできるのは5月2日でしょうね。明日は24時間勤務が予定されていますので、更新はちょっと無理です。いただく詩集・詩誌は一日平均1〜2冊ですから、そんなに無理をしなくても更新できる計算になりますが、現実はなかなか…。まあ、自分で好きで始めたことですから楽しんで続けます。
○詩集『阿由多』2号 |
2000.12.11
東京都世田谷区 阿由多の会・成田佐和子氏発行 500円 |
引き出しが一杯/近藤明理
近ごろ覚えたいことが覚えられない
英語の単語
ごまだれの作り方
友達の携帯電話の番号
頭の中の小さな引き出し
どこかに確かに しまったはず
でも 出てこない
出てくるのは要らないものばかり
幼稚園のとき好きなハンカチをどぶに落としたこと
友人A子の初めてのデートは春分の日だったこと
知人が法事のお返しの最中(もなか)を車で轢いてしまったこと
こんなもの捨ててしまえば
大事なことをしまっておける
スペースを作れるはず
「忘れてもいいこと」を思い出すうち
私の頭の中は
どうでもいいことや 遠い昔のことで
一杯だということがわかる
五歳の思い出は
大きな引き出しに ゆったり入っていて
いつでも 取り出せるのに
四十歳の思い出は
その辺の空箱に 押し込められていて
三十八歳のや四十二歳のとごちゃまぜになっている
しかたない、せめて日記でもつけようかしら
いや、前にもそんな決心をしたような……
おもしろうてやがて悲しき、と言ったところでしょうか、50歳を越えた私にはよく理解できる作品です。特に最終連には泣かされますね。おそらく忘れるということは、人間の生理に関係する重要なことだと思うのですが、うまく説明できません。以前、私が書いた詩の中に忘れる特権を生かせる時代まで≠ニいうフレーズを思い出すのみです。おっと、これは「出てくるのは要らないものばかり」の典型ですね(^^;;
生物として人間が忘れる≠ニいう特性を持っていることにはそれなりの理由があると思っています。ある種の薬物を使えば記憶力が異常に増大することは、私にも経験があります。いわゆる頭のいい連中というのは、脳にその薬物の作用が多いだけだと理解しています。しかし忘れる&K要性もあるはずです。それは何だろうかな、と思います。そんなことまで考えさせられて、いい作品だと言えましょう。
○宮本智子氏詩集『しっぽの先まで』 |
2000.12.20
東京都世田谷区 スタジオ・ラガッツォ刊 1715円+税 |
干す
干ししいたけを 水に漬けると
日に当っていた時間が
ゆっくりと 溶けだす。
まろやかな 良い味なので
甘みの足りない友人を
しばらく
干してある。
今もあるんでしょうか、形状記憶合金。「日に当っていた時間が/ゆっくりと 溶けだす。」というのは、そういうことだと思います。プラスチックなどには塑性変形という現象があって、変形した履歴をくり返すと言われています。それとも同じなんでしょうね。植物にも金属にも、化成品にも同じような現象があると思うと、自然界というのはおもしろいものです。もちろん「しいたけ」の方が詩的で、太陽を溜めこんでいるなんていい発想だと思います。
「しいたけ」と「友人」を同列に置いていることが、この作品のもうひとつのおもしろさです。しかも「干す」には文字通り干し吊るすという意味と、仕事を干す、などの意味もあって、なかなか奥深いと思います。
詩集全体に、人間が好き、という感触があって、読んでいて心があたたかくなる思いをしました。この「干す」もやはり人間をあたたかく見ています。短い詩ですが作者の性格まで理解でき、いい作品です。
○光冨郁也氏詩集『サイレント・ブルー』 |
2001.5.1 東京都新宿区 土曜美術社出版販売刊 2000円+税 |
点のカイト
江ノ島の砂浜で、
少年だったわたしは、
父とカイトを、飛ばした。
父の、大きな背の、
後ろで空を見上げる。
埋まる足元と、手につく砂。
潮風に乗って、
黒い三角形のカイトは、
糸をはりつめて、遠く浮かぶ、
追いつくことのできない、
二人で見続ける、
空の点。
ヘッドホンで、
CDを聴く夜。
不安をやわらげるため、
処方された漢方薬、
薄い茶色の、舌にはりつく、
顆粒を、
ウーロン茶で、二回にわけて、飲む。
オウム貝の、ライトの明かりだけで、
眠くなるまで、
ベッドの中から、
床のすみに放られた、
アルバムを手にする。
オレンジに照らすページを開くと、
正月に、江ノ島で遊ぶ写真があった。
腰を曲げ、
黒いカイトの糸をほどく、父と、
紙袋を後ろ手にしている、わたし。
それぞれ、帽子をかぶり、
色黒の父と、
色白のわたしが、
カメラのレンズの側の、
母に向かって、笑っている。
半身を起こし、
わたしの横顔を、
ストロボより激しい、
カミナリの光が照らす。
腕を伸ばし、窓を開け、
二十年は会っていない、
亡き父はどこかと、空をあおぐ。
いま、
黒い点が拡がり、
巨大なカイトで覆われた、
夜の空から、雨が降り注ぐ。
カイトのビニールにあたる音。
わたしは、枕元のライトで、
一眼レフの脇の、
紺の帽子を探し、かぶり、
湿った風の匂いに、
こぼれた薬が、
胸もとに散らばり、
さわってみると、砂の感触がある。
比較的長い詩が多い中で、短い部類に属する作品です。長い作品にはそれなりの理由があり、ご覧のようにこの作品にも理由があると思います。20年という時間を表現するには、これでもまだ不足しているのかもしれません。しかし「不安をやわらげるため、/処方された漢方薬、」「亡き父はどこか」という重要なキーワードはきちんと配されていて、過不足ないと言うこともできます。
最終行の「さわってみると、砂の感触がある。」というフレーズが、この作品のすべてを物語っていると思います。このフレーズにそれまでのすべてが集約され、作者の精神状態が手に取るように判る、と書いたら言い過ぎでしょうか。それほど重要なフレーズだと思っています。まだ30台の方で、新しい詩人が誕生したと言っていいでしょう。今後の活躍が期待されます。
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