きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
mongara kawahagi.jpg
新井克彦画「モンガラ カワハギ」




2001.5.1(火)

 会社の仕事で徹夜の予定でしたが、予定変更で帰宅しました。徹夜は明日にズレこみそうです。今のうちにいただいた会報を読んでしまおうと思っています。
 今日はメーデー。もうすでに終っている所もあるんですね。5月1日という日が大事なのか、労働者のお祭りととらえると連休の最初にやった方がいいのか、判断に迷うところですね。少なくとも60年代、70年代の労使対決の時代からは変化しています。表面的には、ですけどね。労働者という意識も薄れて、フリーターという存在も顕在化して、従来の考え方で労働というものをとらえるには無理があることも事実です。難しい時代というか、ある意味ではおもしろい時代になったものだと思います。少なくとも70年安保を体験していた頃には、思いもつかない事態です。詩(らしきもの)を書いている一員としては、じっくり観察する必要があると思っています。



鬼の会会報『鬼』348号
oni 348
2001.6.1 奈良県奈良市
鬼仙洞盧山・中村光行氏発行 年会費1万円

 餓鬼は三種
 最初は無財餓鬼で、なんの財産もないので素っ裸で、なにも食べられない。つぎは少財餓鬼で、ボロ切れを着ていて少しは食べられる。といっても残飯の類いだ。この二鬼は、地下の餓鬼界に住んでいる。第三の多財餓鬼は、人間界に住んでおり資産家だ。大金持ちで立派な屋敷に住み、山海の珍味を食している。餓えているから餓鬼ではなく、どんなに有しても財産に満足できないのが餓鬼なのだ。

 第1は「無財餓鬼」。うん、これは判ります。第2は「少財餓鬼」。これも判るような気がします。で、第3は? 「多財餓鬼」? なに、これ? 「人間界に住んでおり資産家だ。大金持ちで立派な屋敷に住み、山海の珍味を食している。」これって、いわゆるカネモチじゃないですか。誰もがなりたいと思っているカネモチ。
 「どんなに有しても財産に満足できないのが餓鬼なのだ。」で、ようやく理解しました。そして思わず笑ってしまいました。カネモチはケチ、という俗説と通じているのかもしれません。そうか、カネモチって餓鬼なんだ、と納得してしまいましたね。でも、餓鬼と呼ばれてもいいから、なってみたい(^^;;



沼津の文化を語る会会報『沼声』251号
syosei 251
2001.5.1 静岡県沼津市 望月良夫氏発行 年間購読料5000円

 「教育小考」という楽しみなコーナーがあって、大岩孝平という方が「家庭教育こそ」というタイトルの小論を書いていて、冒頭で次のように述べています。
<教育の目的は何か。私は社会に貢献できる人材の育成。自分自身の人格を高めること(人間形成)と理解している。>
 まさにその通りで、我が意を得たりと内心ほくそ笑みました。しかし後半で次のような文章に出会い、戸惑ってしまいました。
<戦後の外国から押しつけられた教育改革、日教組による歪んだ小中学校教育、これらが50年経った今、間違った結果となって現れている。>
 なぜ戸惑ったかというと、冒頭の理念とのギャップを感じたからです。冒頭の「教育の目的」に照らし合わせれば、「外国から押しつけられた教育改革」や「日教組による歪んだ小中学校教育」が「社会に貢献できる人材の育成」を疎外したと受けとめられ、おやっ?という思いをしました。
 浅い知識で論陣を張ろうなどとは思いませんし、大岩氏の全文を載せないで論考するのはフェアーではありませんから、これ以上突っ込む気はありません。ただ、「外国」も「日教組」も「教育の目的」の認識は大岩氏とさほど違ってはいないだろうと思います。それなのに、一般的になぜこういう図式ができ上がるのか不思議でなりません。
 ここから先は私のまったくの想像になりますが、「社会」に対する認識の違いがあるのではないでしょうか。「社会」を政府ととらえると、現在の政府の意に添わない「外国から押しつけられた教育改革」や「日教組による歪んだ小中学校教育」が槍玉に上がるのはよく理解できます。現在の政府に、現在の社会制度に「貢献できる人材の育成」と言ってくれた方が理解しやすいですね。そこには変革を志す者は疎んじられ、異議を申し立てる者は自由主義の履き違えと蔑まれる理由がよく理解できます。
 私にとっての「社会」とは、地域の住民であり、娘の通う学校の先生方や親御さんたち、会社の同僚や文学の仲間など、顔の見える人たちです。外国籍の人もいます。志の低い小市民的な世界ではありますが、その中で「貢献できる人材」になろうと思っています。むしろ、その人たちが私に「貢献」してくれている、私を「教育」してくれていると言った方がいいでしょう。
 教育を語ることは難しいことです。それが国家による教育を前提にして論じられると、ちょっと戸惑ってしまいます。日の丸、君が代について学校の先生方とお話しをする時は、お互いに何の違和感もありませんでした。それが文部科学省というメスが入ると、どことなくギコチなくなってしまいます。そういうことが無くならない限り、本当の市民のための教育なんてできないでしょうね。



 
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