きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
mongara kawahagi.jpg
新井克彦画「モンガラ カワハギ」




2001.5.8(火)

 日本詩人クラブのHPに「沿革」のページがありますが、1999年(平成11年)までアップすることができました。会員名簿に載っている「日本詩人クラブの沿革」をそのまま転載しています。全85ページの会員名簿の中でも1/4の22ページを占めるもので、ここまで入力するのに2年近くかかってしまいました。まあ、詩人クラブ50年の中での2年ですから、たいしたことはありませんが(^^;;
 現在の名簿には2000年分まで載っていて、これを転載すれば一応終了です。毎年の主な行事、死亡会員名程度しか載っていませんが、詩人クラブのおおよその活動は判ります。会員名簿は会員・会友+αにしか配布していませんけど、HPならどなたでもご覧になれます。お閑なときにでも覗いてみてください。



個人詩誌『粋青』25号
suisei 25
2001.5 大阪府岸和田市
後山光行氏発行 非売品

 日々

小さな枝が風に吹かれている
葉のゆれぐあいが
泣いているような
笑っているような

日々を
つらいと考えると
新しい時間が爽やかにならないから

風に吹かれるように
何もかも聞き流して
根がしっかりしている木の枝になって
ゆれていればいい

 この作品が見開きの左ページにあって、右ページには「1998年4月 アメリカ、デトロイトにて」と題する水彩画が載っています。デトロイトのホリディ・イン・ホテルの窓からの眺めで、ホテルの中庭らしい場所の樹木も描かれています。「小さな枝が風に吹かれている」というのは、おそらくこの樹木を指しているのだろうと思います。
 最初は「根がしっかりしている木の枝になって」というフレーズで、これって寄らば大樹の陰≠フことかと思いましたが、そうではありませんね。自分自身が「根がしっかりしている」大樹≠ニ解釈できます。大樹に葉緑素をもらたす「木の枝」というわけです。
 この見方はおもしろいと思います。拡大解釈していけば、生活の安定はちゃんとやっておいて、文学という部分では「ゆれていればいい」のだ、と考えることができます。文学というものは、生活も家族も犠牲にして成り立つものだという考え方が、先輩方の世代にはあったようです。後山さんも含めて私たちの世代ではそういうことを言う人はあまりいません。私たちの世代では、家族や生活はちゃんとやって、その上で文学を志せればいい、と考えている人が多いように思います。私もそうです。
 作者の意図とは外れているかもしれませんが、そんなことを考えさせられました。



東利行氏詩集『秘儀』
higi
2001.5.5 大阪市北区
編集工房ノア刊 2000円+税

 背反

発作的に振り出しに戻る
一筆感覚の天体の運行
善悪の対立を超え
垂直に交わればずれ落ちる
塩分過多の自我意識
彫塑的表現をすれば
互いが遠巻きに徘徊し
否定が意味を構築する
呪文や呪いによって
見詰め続けて飽きない個所で
切り上げたり 切り捨てたりして
胃に優しい成熟度を測る
裏切らなければ愛せない
文字盤のような受胎で存在し
瞬きすれば消滅する
デジタル反応の受け身の抵抗
発展も深化もないユートピア
蛇行する人と川が文明を生み
便利になるほど画一化する
砂時計の風紋のように
叩けばバウンドする妄想
二人称の中腰の憧憬
結び付けたり 並置したり
好き勝手な視点から
内部へ伸びる角のごとく体現する
非難されれば沈殿する恐怖と腐敗
合わせ鏡の風下の狭間で
理詰めの絶望は美化される
二つ以上はある焦点
表裏を同時に切る刃物のように
水陸両用の遠近法で一元化する
互いに喰い入る生と死
深呼吸すれば省略され
息を詰め 硬直しては回生する
肉眼で観察できるだろうか
灰や砂の中から出現し
先着順に競合する
起爆性の儀礼大系
途切れつつ縦横に走る観念
逆算する筒抜けの日常の中で
維持と保存を先取りすべく
地を這う姿で化石化する

 ご覧のように、非常に難解な作品21編から成る詩集です。丸2日かけて拝見しました。それでもまだ、よく理解できていません。いや、まったく理解できないでいる、と言うのが正直な感想です。なぜ、この作品が「背反」なのか、基本的なことから理解できないでいます。そもそも理解≠ニいう概念すら誤りなのかもしれません。何を感じるか、という攻め方をしなければいけないのかもしれません。
 私の頭でも僅かに感じ取れる部分は「発展も深化もないユートピア」「便利になるほど画一化する」などのフレーズです。前者は、ユートピアとは「発展も深化もない」ものだと気づかされ、後者は確かに「便利」とは「画一化」されたものだな、思い至ります。そんな具合に読者の想像力を刺激するのですが、作者の意図とはかけ離れてしまうかもしれません。詩は作者の意図を離れて、読者によってひとり歩きするものとすれば、そういう読み方が許される詩集と言えましょう。難しい言葉は何ひとつ無いのに、本当に難しい詩集だと思いました。



 
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