きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
mongara kawahagi.jpg
新井克彦画「モンガラ カワハギ」




2001.5.19(土)

 PTA役員として最後の仕事、市PTA連絡協議会総会に行ってきました。事業・決算報告、事業・予算案の承認、新旧役員の交代が主な議題です。滞りなく終了しました。
 そのあとは地区PTA毎の懇親会。新旧役員の懇親が主で、最後の呑み会といったところですね。もうこれで最後かと思うとうれしくて、いささか呑み過ぎました。二次会までとてももたず、一次会の途中で退席という体たらくで、酒に弱くなったなと実感しています。
 その席で新任の小学校校長とお話しでき、ついつい詩の話になってしまいました。校長先生も詩がお好きだということで、意気統合してしまいました。あげくの果てには、朝会でお前の詩を紹介したい、ついては詩集を寄越せ、と言われてしまい、ついつい承諾してしまいました。あれは酒の上での約束で、という逃げは私の嫌いなことなので、約束は守ろうと思います。ですが、本当にいいのかな? 私の詩が小学生に判るのかな? まあ、判断は校長先生に任せましょう。



秋吉久紀夫氏著『イスラエル 詩と紀行
israel shi to kikou
2001.5.15 福岡市中央区 石風社刊 1800円+税

 飼い葉桶の傍らで

ベツレヘムの聖誕協会の建物は、どこから眺めても、
灰白色の煉瓦造りの攻めるに難い要塞である。
入口はひと一人しか通れない狭き門で、
壁の上の這い上るひとさえ不可能な窓は、
すべて銃眼の睨
(にら)むに相応しい間あいを保っている。

というのも、十字軍時代に敵の襲撃に備えて、
修築された外形の堅固な十字の城郭構造。
マリアが産まれたばかりのわが幼子
(おさなご)を布にくるんで、
寝かせた飼い葉桶のあるあの午小屋とは、
この聖誕協会のなかの地底を穿
(うが)った洞窟だった。

ともかく灯がなくては、東も西も皆目分からない。
見渡せば周りは岩肌だらけの方形のうす暗闇のなか。
部屋の一隅のきらめく大理石の上に、
星形の白銀色の金属が嵌
(は)められているだけで、
なかは、まったくなにもない空漠とした世界。

東方の博士たちが石塊
(いしころ)だらけの道を、
先導する星の明かりに照らされて辿り着いたあの夜、
持参した豪華な宝の箱をいくら開けたところで、
先ずかれらにとって、耐えがたかったのは、
つんと鼻をつく馬の糞尿の臭いであったに相違ない。

そんなかれらを前にして幼子は、たぶん
飼い葉桶のなかですやすやと眠っていたことだろう。
いずれにせよ、海底の真珠はもの言わぬ。
いまでも聖書のなかの、どの頁を捲
(めく)っても、
このひとが自分で書いた字は一片すら残っていない。

 日本が初めてPKO部隊を派遣したばかりの1996年3月にイスラエルを訪れた、と「あとがき」にあります。そのときの詩と紀行文をまとめた著作で、緊迫した雰囲気も伝わってくる作品が多くありました。紹介した作品は、よく知られたキリスト生誕の地に建てられた教会を舞台にしていますが、馬小屋は実は洞窟だったということに驚かされます。私が幼児期に見た絵本には、野に一軒の馬小屋が描かれていて、その記憶が今まで続いていました。かの地の草一本無い風景を考えれば、洞窟の馬小屋が当然なのかもしれませんが…。改めて先入観や幼児期の記憶の定着に危険を感じる次第です。
 それに「いまでも聖書のなかの、どの頁を捲っても、/このひとが自分で書いた字は一片すら残っていない。」というフレーズにも驚かされます。世界のベストセラーというべき聖書には、キリストが直接書いた字が無いなどと、今の今まで知らないでいました。キリスト教徒なら当然の常識なのかもしれませんが、そうでない者には無知としか言いようのないこと、そんな断絶のようなことまで感じてしまいました。単なる紀行詩とは言えない、多くの含蓄を含んだ著作だと思います。



詩誌RIVIERE56号
riviere 56
2001.5.15 大阪府堺市
横田英子氏発行 500円

 弥生の昔の物語(十一)/永井ますみ

    まぐあう

うまくあったかや
こっそり戻ってくると
ねやの端からばあさまの声がする
どんなことでも
誤魔化しようのないのが ばあさまの眼だ
うまくあったかやって
男の成り余れるところと女の成り足らぬところが
呼び合うっていう話か
消え入りそうな小さな声で
うん としか言いようがない

繭のにいさんの吹く石笛に誘われて
繭のにいさんの呼ぶ声に誘われて
栗の花の揺れて白く濁る
宵の薄闇のなかで
まぐあってしまった
いつもと違うにいさんの眼の光りが
射すくめ
私を素直にさせる
腰に廻す逞しい腕
ふくらみはじめたふたつのちぶさがつぶれて
にいさんの差し込む成り余れる太い棒が
いきなり触れて
いつまでも
私のそこに差し込まれたままの感覚

知らぬ間に流れた時間
浅い流れで身をすすいで
集落の入り口まで送ってくれたにいさんが
尾根伝いに駆けて帰っても
私のそこには
太い棒の感覚だけがいつまでも残っている

まぐあってしまった

 「まぐあう」という意味はおぼろげながら知っていましたが、この作品では重要なテーマですので、辞書にあたってみました。「まぐ」に求ぐ・覓ぐ≠ニあり、求め尋ねる・探し求めることとありました。おそらく求ぐ合う∞覓ぐ合う≠ニいう字になるのではないかと想像しています。男女の交合、なんて意味が載っているかと思いましたけど、そんなことはどこにも書いていませんでした。わずかに広辞苑で妻覓ぎかねて≠ニいう用例が載っているだけです。
 それなのに私の頭の中では男女の交合という意味で定着しています。おそらく大方の人も同じでしょう。この作品ではまったくその意味で使っていますから、それが一般的なのでしょうね。それとも俗語辞典あたりでも調べれば出ているのかな?
 ちょっと作品と離れてしまいました。作品に戻ります。「弥生の昔」と断わっていますから、その時代という設定ですが、現在も残っている風習だと思います。今は場所が「宵の薄闇のなか」からホテルに変わってしまいましたけどね(^^;; それに「どんなことでも/誤魔化しようのない」おばあさんはいなくなってしまいました。現代のおばあさんは自分の色恋で忙しい(^^;; 言葉の成り立ちから、現代の世相までも思い至らせる作品と言えましょう。「弥生の昔」も今も、人間のやっていることは何ひとつ変わらなくて、安心したりがっかりしたり、さて、どちらかな?



詩誌『筑波路』18号
tukubaji 18
2001.4.10 茨城県真壁郡真壁町
真壁詩の会・海老沢静夫氏発行 非売品

 さくららん*/森井香衣

生い茂る緑の中空に
輝いている

シャンデリア
シャンデリア

星形の小さな花は涙をにじませ
地表をみつめています

太陽に背を向けたまま
愛を探している光の花束

さくららん

花物語は
踏みにじられた悲しみ
--妖精が幸せでないように

真珠の輝きを花冠に
ときには嘆きにも似て

枝垂れて咲いている光の花束

月が沈黙の夜を照らすとき

真実を求めて
ひとしずくの涙がこぼれ落ちます

一滴

一滴

さようならと響きながら

 *Tear of Princess

 私は植物に疎くて「さくららん」という花がどういうものなのか判りません。しかし、この作品で想像することができます。シャンデリア・星形の小さな花・光の花束・枝垂れて咲いている、それらの言葉をつなぎ合わせてイメージをつくることは、楽しい作業でもあります。何より「Tear of Princess」という名に惹かれますね。豊かなイメージでひとつの花を表現する、これも詩の役割だろうと思います。
 もう片方のキーワードは、太陽に背を向けたまま・妖精が幸せでないように・ひとしずくの涙がこぼれ落ちます・さようならと響きながら、でしょうか。「花物語」とありますから、この花にまつわる物語があるようにも見受けられます。短いながら読者の想像をかきたてる作品と言えますね。



 
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