きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラ カワハギ」 |
2001.6.5(火)
日本ペンクラブ電子メディア研究小委員会がありました。今までは電子メディア対応研究会となっていましたが、ちょっとだけ格上げされたということのようです。いずれ「小」も取れて、委員会になるんではないか、とのことでした。やることは一緒ですから、名称なんかどっちでも委員ですけどね、って、シャレてる場合じゃないな(^^;;
まだ発表の段階じゃないんで詳しくは書けませんが、地方の会員にも役立つだろうことを討論し始めました。東京近郊の会員は、例会や委員会参加でそれなりのメリットがありますけど、地方会員はそうはいきません。会費を払っているだけ、という状態はマヅイんじゃないか、という理由です。電メ研(おっと、きょうからは略称・電メ研委か? やっぱり電メ研でいいかぁ)として役に立つことはなかろうか、という訳です。
しかし、これってペンに限らず日本詩人クラブも同じ悩みですね。全国組織はどこでも同じなのかもしれません。なかなか難しいことですが、少しずつ改善できるところから手をつける必要はあるかもしれません。このHPでも推移を紹介していくつもりです。
17時に赤坂での電メ委が終わって、そのあとは新宿に向かいました。二瓶徹さんから「新・波の会」のコンサートに誘われていたんです。「新・波の会」とは20〜30年前から関係がありました。2度ほど出かけたことがあります。それ以来ですから、ずいぶんと久しぶりに顔を出したことになります。ピアノと独唱というシンプルなスタイルですが、いいもんですね。歌曲の原点を見ているような気分でした。詩人クラブの会員もかなりの人が作詩していました。私の詩は曲には向きませんが、そういう作品を書ける詩人はすごいと思いますね。
久しぶりにゆっくりと歌唱を楽しんで、というつもりでしたけど、途中で退席しました。22時までに会社に入りたかったからです。急ぎの仕事があって、どうしても会社に行きたかったんです。残念でしたけど、まあ、やるべきことは全てやってしまったから、それでよし、としています。
○高原木代子氏詩集『山繭』 |
2001.5.31
東京都東村山市 書肆青樹社刊 2000円+税 |
八月の手紙
夜明け ヒグラシの声のなかを
今朝も厨房へ急ぎます
どれほどの米を研ぎ
どれほどの皿や小鉢を洗ったことでしょう
なりわいのために日々洗い流し拭き清めたが
折々の怒り哀しみは
滓のように沈んで流れることはありませんでした
それでも病まずに生きられることは
幸せのひとつと半世紀近くの歳月を
わたしはここにいます
老いてゆくことは一度に死を迎えることではなく
生きたままで能力が死んでゆくことだと
老いの日常を語ったひとがいます
八月は精霊の月 知り人の半分はすでに亡く
あしたに何があるか予測だにつかない生を
わたしも生きています
日増しに色濃くなってゆく木立の影が
秋の近さを思わせて
吹きすぎる風に汗を拭って立止まる日があります
「わたし」は旅館か民宿を経営しているようで、「今朝も厨房へ急」いで、「米を研ぎ」、「皿や小鉢を洗」う日々です。他の作品から想像すると「わたし」のご主人は亡くなっているようです。そんな背景を頭に描きながら鑑賞しました。表面的には老いの弱さをうたっているように見えますが、そうでもないようです。「吹きすぎる風に汗を拭って立止まる日があります」というフレーズを見ると、ある意味では現実の生活を楽しんでいるように思えます。老いゆえの強さ、とでも言ったらいいのでしょうか。
第3連の印象は強烈でした。私も50を過ぎて「生きたままで能力が死んでゆくことだ」というフレーズには思い至る点も多くありますね。でも、それすらも乗り越えてしまう強さを、この作品から感じ取ることができます。おそらく「わたしも生きています」という生への断定が作品全体に強さを与えているのではないかと思います。単純で表明的な老いの問題≠ネど蹴散らしてしまうような、したたかな面を持った詩集という印象です。
○鬼の会会報『鬼』349号 |
2001.7.1
奈良県奈良市 鬼仙洞盧山・中村光行氏発行 年会費1万円 |
連載名文「鬼のしきたり」から、きょうは次の文章を紹介します。
空の思想
母と妻が溺れていた。どちらから救助すべきと思うか−、禅僧が問題を出したのだ。母から、いや妻からと議論は堂々巡りで結論なし。そんなに議論していると、二人とも溺れてしまうぞ。老師なら、どちらから−。禅僧は、近い方からたすけるぞ。これが空の思想と申せよう。ものにレッテルはない。レッテルを貼ったのは人間だ。母とか妻はレッテルで、それがなければ単におんな二人である。
うーん、これは参りました。私も母か妻かと考えてしまいました。「近い方から」とは、言われてみればその通りです。それが「空の思想」なら、「空の思想」とは合理的な思考と言えるかもしれません。「空」とは、自然に、あるがままに、ということなのでしょうか。それ故に合理的なのかもしれません。
これは単に「思想」の問題だけではなく、いろいろな場面に応用できる思考だと思います。例えば会社の仕事の中でも、何が合理的かという問いかけができますね。誤った意味での合理主義ではなく「空の思想」に基づいた合理性とでも言いましょうか、そんなものを感じます。
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