きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラ カワハギ」 |
2001.6.14(木)
昨日、日本詩人クラブ千葉大会の写真がし上がってきました。デジカメの写真はすでに見ていましたけど、改めてアナログの写真を見るときれいだなと思います。奥行があると言いましょうか、やはり品がありますね。これからどんどんデジカメの時代になっていって、アナログは衰退していくんでしょうけど、無くなることはなさそうな気がします。
ちなみに私の勤務する会社は、アナログの写真フィルムもデジカメも両方販売しています。ですから、どちらに転んでも儲かるようになっています(^^;;
日本でのデジカメのシェアは一番だそうですが、写真フィルムの技術がデジカメにも生かされた結果かなと思っています。いずれ、自分で自分の製品を駆逐していくことになり、構図としてもおもしろいですね。
○小関守氏詩集『遺された鏡』 |
2001.5.3 千葉県茂原市 光芒の会刊 1500円 |
遺された鏡
ある日兄と弟は
母の遺したコンパクトを
ガラスカッターで裂き
母の襟布に包んで分け合った
かって
瀬音のながれを聞きながら
取り合いをした鏡のひとひら
綿毛になったタンポポに
光をあてる
あれから
兄は鏡を抱いて戦場を
弟は戦火の街を走った
やがて
無言に抱かれて帰ってきた兄
墓標をなぞる指先に
コンパクトの鼓動を感じる
鏡に映る時間の皺
暮れなずむタンポポに
茜がほほえむ
詩集のタイトルにもなっている詩ですが、「母」と「兄」と「弟」を結ぶ「コンパクト」の存在がうまく作用していて、質の高い作品にし上がっていると思います。「コンパクト」の使い方が巧みで、「綿毛になったタンポポに/光をあて」たり、兄弟で「鏡を抱いて戦場を」駆けたり「戦火の街を走った」している様子には胸を打たれるものがあります。
「母」と「兄」という二人の死者を扱いながら、絶望感や暗さがないのも読者としては救われた気持になります。「茜がほほえむ」という最後のフレーズで安心感を与えているのでしょう。人生を達観した心境が伝わってきて、一抹の感傷の中にも心なごむ思いをしました。
○詩誌『撃竹』49号 |
2001.5.20
岐阜県養老郡養老町 冨長覚梁氏発行 非売品 |
顔/伊藤成雄
どこに立っても地の頂上である
その頭頂部から言霊を放つ
ことだまは大きく外れて消える
私は言霊を取り戻すため
頭頂部から下りはじめる
そのとき私は現から取り残される
現の裂け目は深い崖である
斜面に二つの眼窩があり
吸い込まれていく風景は
盛んに選り分けられているのが見える
殺到した風景は殆ど深く落下していく
斜面の両脇に覆いが張り出して
二つの洞穴に音を導いている
音は一斉に流れ込んで響いている
なんと人の声と小鳥の鳴き声ばかりだ
真ん中には風穴があいていて
冷たい風が流れ込み
暑い風を吐き出している
垂直の岸壁が小刻みにゆれた
何か急変して緊張したに違いない
定期的な微震だが
この岸壁が崩れ去る前兆かもしれない
文字通り顔をうたった作品ですが、おもしろいですね。顔をこんな風に表現した作品には初めてお目にかかりました。特に眼が圧巻です。「吸い込まれていく風景は/盛んに選り分けられてい」て、しかも「殆ど深く落下していく」というのですから、眼に対する認識の深さを感じてしまいます。そんなものだろうなと改めて思います。見たものをすべて記憶するはずはないし「殆ど」捨て去っているのでしょう。
そして最終連がすばらしい。「この岸壁が崩れ去る前兆かもしれない」というフレーズでは思わず笑ってしまいました(失礼!)。この諧謔性がこの作品を高めていると思います。それまでの連は、ことによったら誰でも書けるのかもしれません。しかし、最終連はなかなか書けないのではないでしょうか。詩人でなければ書けない、詩でなければ書けない部分だと思います。勉強させてもらいました。
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