きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
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新井克彦画「モンガラ カワハギ」




2001.6.19(火)

 一冊の本を3時間ほどかけて読んで、満ち足りた気分でいます。正確には、文学的には満ち足りているが生活者としては考え込んでいる、というところでしょうか。6/10にいただいた本ですが、今日まで読めないでいました。先にいただいた本から順に読んで、というのが公式見解になりますけど、正直なところは予感がしていて、じっくり読める日を待っていたということです。
 日本ペンクラブ電子メディア研究小委員会委員長の秦恒平氏より『湖(うみ)の本』45をいただきました。予感通りに考え込んでいます。他にやらなければならない、やりたい仕事はヤマほどありますが、それら全てを放っておいて、今夜は『湖(うみ)の本』だけを考えていたいと思います。



秦恒平氏小説集『湖(うみ)の本』45
umi no hon 45
2001.6.19 東京都西東京市
「湖(うみ)の本」版元刊 1900円

 大きく「無明」「ディアコノス=寒いテラス」と2部構成になっていて、前者は20篇の短編で、原稿用紙4枚にきっちり収まっています。書けないときでも自分に義務付けて書いた、と後書にあります。プロの作家としては当然かもしれませんが、なかなかそうはいかないものだと思っています。それはそれで魅力ある作品が多いのですが、やはり私は後者に胸を打たれています。
 タイトルの「ディアコノス」というのはディアコニッセ(奉仕女)≠ニいう聖書に出てくるギリシャ語から来ているようです。奉仕≠ニいうことになるのでしょうか。
 スタイルは、ある女性が娘の小学生時代の恩師にあてた手紙の形をとっています。おだやかな、敬語をきちんと使える女性という設定です。あらすじは次の通りです。
 小学校に入学した娘が知恵遅れの女児と同じクラスになって、恩師からその女児の世話係を任された。娘は嫌がりもせず淡々と小3の2学期まで女児の係≠ニなったが、それ以後は係≠ヘクラスの女子全員にやることになって、いわば解放された。
 女児は小4の時に突然、娘を訪ねてきたことはあったが、それ以降は来ることもなかった。しかし娘が中3の受験勉強の最中に再び訪れ、以後、娘が大学生になっても訪問が続く。女性の家庭では迷いながらも女児(すでに肉体的には立派な女)を受け入れてしまわざるを得ない。しかし、一緒に(性的に)寝たいと要求され、最後には一緒に死んでくれとまで言われてしまう。
 執拗な要求に娘はたまりかねて「寒いテラス」で女児を突き飛ばしてす。その直後に女児の家でガス事故があり、女児は入院してしまい、週刊誌が心障者差別だと書きたてる。娘は「世論の正義」に後押しされた見ず知らずの青年に殴り倒されてしまう。女性は恩師に「私どもに(女児に対する)愛が無かった、あなたにはそれが有」ったのですか?と問う。
 教育とは何か、奉仕とは何か、正義とは何か、心障者をどう受けとめて行動するのがよいのか、非常に問題の多い小説だと思います。秦さんは20年前にこの作品を書き上げ、出版社からも上梓を勧められたようですが、結局、今になって湖(うみ)の本で発表したとのことです。20年前に発表してもよかったのではないかと今だにお迷いのようですけど、私はこの時代でよかったと思っています。ようやく総合的なモノの見方が出来つつある今でなければ、この作品の価値は埋もれてしまったかもしれません。
 私にもこの作品に近い経験があります。小・中学校を同じにした軽度の知恵遅れの同級生がいて、いじめに会った時に庇ったのを機に近づいてきました。私がバスケット部の主将をやった時に、一緒に試合に出たいと入部してきました。運動神経はよかった方です。中卒で大工になって、私の家を建てたいと言っていました。私が家を離れて就職したあとも、私の実家には出入りしていたようでした。
 20年ぶりぐらいで同窓会で会った時、もう一度昔の仲間とバスケットをやりたい、と言っていました。おお、やるか!と応えましたが、その1年後に屋根から落ちて死んだと知らされました。
 心障者とは何か、と私には明確に答えられる知識も感性もありません。この作品を人文学的・医学的にも応えられる術も持ちません。それでもなおかつ、人間とはなんだろうと考え込んでしまいます。文学的には誰も書いていない分野を書いているという羨望はあります。しかし、そんな羨望は自分の小ささを曝け出しているだけだと思います。作家の本来の力を感じるだけで、人間の理不尽・不可解さを考えて小さくなっています。



 
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