きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
mongara kawahagi.jpg
新井克彦画「モンガラ カワハギ」




2001.6.27(水)

 午後、大阪に本社のあるセンサー・メーカーの訪問を受けました。大手のメーカーですが、発展途上の会社のように意欲的で、ユーザーが何を望んでいるかをキャッチする能力に優れています。今回は新しい営業担当者が顔見せをしたいというので、アポを了解しました。私も世の中に出回っていないセンサーの情報を知りたくて、面接を心待ちにしていました。
 さっそく、そのセンサーの話になると、なんとパンフレットを出すではありませんか! もう、こちらの希望が漏れていたのかと驚きましたが、そうではありませんでした。たまたま新しいセンサーのパンフレットが出来ただけのことでした。でも、本当に驚きましたね。そこまで食い込んで営業するのはエライ!と思いましたよ。残念ながら、そのパンフレットは私の希望より範囲が狭くて、実用には供しませんでした。しかし、この会社なら今日の面談を受けて、すぐに私の希望するセンサーを作ると思います。私にもタイムリミットがあって、そのセンサーが出来たとしても使うタイミングはないでしょうけど、好ましく営業マンを見ましたよ。日本の製造業の底力を知らされた思いの面談でしたね。



詩誌『象』102号
katachi 102
2001.6.25 横浜市港南区
「象」詩人クラブ・篠原あや氏発行 500円

 ワシン坂を降りる/篠原あや

不思議に
登った記憶のない坂
降りれば小港への近道だった

漁師の父子が並んで歩く肩には
担ぐ網も軽い

夫に背かれ
ワシン坂病院で終えた友のいのちをみつめたあの日から
この坂は
私にとって無縁のものとなった

久しぶりに立つ足許の
かつての海岸線は
砂浜とともに産業道路の下に埋れた

塩風をまともに受けながら
素足で砂を踏む快さを奪った
失われた砂浜への郷愁の痛み

アメリカとの和親條約が
横浜村海岸の応接場で結ばれたのは
一八五四年であった

いま
私のなかを
さまざまに揺れ
そして交差する心が
過る

 ワシン坂とは和親坂のようですね。横浜らしい地名だと思います。その横浜で生まれ育った篠原さんにも「登った記憶のない坂」があるとは、不思議な気もしますが、意外と灯台元暗しであるのかもしれません。いやいや、降りた記憶はあるが「登った記憶のない」という意味ですね。これもまた不思議な感覚でしょうね。降りるまでにどうやってそこへ辿り着くんでしょうか。
 そんな地元への愛着が、歴史の重みとともに伝わってきます。それらを眺めて、現在は「さまざまに揺れ/そして交差する心が/過る」状態とする心象はいかばかりなものでしょう。私のように各地を転々とした者には伺い知れない心境があるようです。歴史を頭の中だけでなく、体験として受けとめている作者の大きさを感じさせる作品だと思いました。



詩誌パープル18号
purple 18
2001.7.16 川崎市宮前区
パープルの会・高村昌憲氏発行 500円

 渇き/高村昌憲

記憶の中の森よ泣け 源流の流れよ
いつの日も微笑
(ほほえ)んでいた木の葉の雫よ
小鳥たちの五線譜は 今はもう無い
辺りは不吉に渇いた 全休止符の世界

都会の川の始まりを確認した夫として
残したいものが確かにあった父として
ちぢんだ心を伸ばす 水の流れが無い
渇いた心の上に積乱雲よ やって来い

 作者の居住する地域には、大都市には珍しい森と蛍の飛び交う谷戸があるそうです。作者も署名運動などをしながら谷戸を守ってきた経緯があるようです。しかし残念ながら昨年末から開発工事が始まり、5年後には森は姿を消す、と「編集後記」にありました。この作品はそれを念頭において拝見しました。
 「五線譜」が「全休止符の世界」に変わってしまうことに「渇き」を覚えている作者の姿がよく表現されていると思います。いや、そんな詩的な見方をもこの作品は拒否しているのかもしれません。底知れぬ「渇き」だけを描こうとした、やむにやまれず出現したものと受けとめた方がよいでしょう。なぜ、詩は書かれなければならないかという理由を、明確に示した作品だと思います。



詩誌『沈黙』21号
chinmoku 21
2000.12.10 東京都国立市
井本木綿子氏発行 700円

 赤松幻影/天彦五男

夏の始じまりを告げる稲妻もある
夏の終りを告げる雷鳴もある
警棒が束になって降る雨が止むと
赤松が股から裂けてほとを晒していた
そこは一部炭化し湯気が出ていた

男の性が女の性を覗きこむ舞台
見慣れた筈なのになにを確認しようと言うのか
さらけだした女の目が勝ち誇っている
三つ目女の顔が消えると電灯がついた
一瞬の闇に恐怖心がほとばしった

春秋夏冬をないまぜにしてがらぽんと
賽の目は若さと老いをインチキなしに告知する
秋の葉が色づき掃くそばからまた落ちてくる
日中は冷房が欲しい暑さなのに
桜の葉は秋の先駆けなのだろうか

秋の始じまりを告げるコスモスもある
秋の終りを告げる菊花もある
女の涙のような雨が横なぐりになる
張り倒されて気がつくと冬景色だ
赤松が湯上りの女だったのは一瞬
毛むくじゃらの男の裸像 になっていた

仁王立ちの青春は戻ってこない
飲む 打つ 買うの三拍子の一つ
稲妻酒だの 白露酒だのなんでもこじつける
花や月や紅葉や雪だけではなく
なまけ酒 へなちょこ酒に酔いしれる毎日だ

打つのも買うのも一拍子半ほどは叩いた
木の股から生まれた訳ではないので
猿の玩具になって手を打って喜んだこともあった
終焉の狂言回しにはまこと好い加減であった

能舞台が暗転すると地方のストリップ小屋
秋刀魚の煙が客席に漂ってくる
客は一人だけなので帰るに帰れない
女の股から雷鳴が聞こえる
男の炎はくすぶったままだ

 ある時代を共有した男にしか、この哀切は伝わらないのではないかと思っています。私も天彦さんの年代の尻の方にくっついている部類で、辛うじて理解できている気でいます。「見慣れた筈なのになにを確認しようと言うのか」。ホントに。でも何度でも何人でも確認したくなるのは、動物の牡の中では人間だけなのでしょうか。「客は一人だけなので帰るに帰れない」というのは、実は男の優しさなのではないかと思っています。見ることで、逆にこちらがサービスしているような…。
 「飲む」を除けば、「打つ」も「買う」もほとんど経験していないに等しい方ですが、少なくとも私たちの世代までは残っていました。今の若い牡たちはどうなんでしょうか。インターネットの売春サイトなどで、もっとアッケラカンとしているのかしら。私たちには何やら後ろめたい気持があって、それが逆に刺激だったわけですが、今はそんな刺激も必要としてさえいないのかもしれません。作品の本質とは外れますけど、そんな社会現象まで考えさせられた作品です。



詩誌『沈黙』22号
chinmoku 22
2001.6.10 東京都国立市
井本木綿子氏発行 700円

 男子マラソン/村田辰夫

出発数分前
それぞれはモゾモゾもぞもぞ準備している
足踏みする人、上半身を回転さす人、ゼッケンを気にする人
いよいよスタート時刻が近付く
緊張 全体の動きがとまる
スタート
たまっていたものが一斉に発散される
帽子が 頭が 肩が 腕が群がって跳ねている
ひと固まりに吐き出された
精子の一群
こらえにこらえてきた今生の思いが射出された
この一瞬のためにトレーニングを重ね 足腰を鍛えてきた
ただ只管 膣道を泳いで行く精子のように
一路 沿道を駆けぬけ
小高くなった丘状の小径ぞいに
若草の微風を頬や首筋に感じながら
咽喉の渇きをそれぞれの特殊な水で癒し
喘ぐ息をおさえ 整え
テンポ正しく 上体を上下に動かし
テンポ正しく 前へ前へと腰や脚を揺り動かす
目指すはゴール
勝利の女神はただ一人だけを待つ

今やマラソンの全体は頭部 頚部 中片体部 尾部に分かれ
合図によって解放されて一時間 80%は生きている
レースは正常 だが最後の栄冠は一人だけ
走れ 走れ
とにもかくにも あの甘美なる虚脱感を得るために

 これはまた、なんと言う作品だ、と思いましたね。確かにマラソンというのは性交渉に似ているな、と改めて知らされました。しかも男子≠ノ限って。私はマラソンこそしませんでしたが、長距離走は得意な方で、駅伝にはよく出ていましたから、ここに書かれた状況はよく理解できます。しかし、自分が「精子」だなんて思ってもみませんでしたよ。言われてみると納得できますがね。
 しかしそれにしてもおもしろい詩です。小・中学校じゃあちょっと無理ですけど、大学の授業なら使えそうな作品ですね。うまくすれば高校でも可能かな。現代詩のおもしろさのひとつとして教材になっても良いような作品だと思いました。



 
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