きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラ カワハギ」 |
2001.7.1(日)
暑い一日でしたね。小田原地方も35度を越えていたようです。我が家ではクーラーが無いんです。家を開け放しにして風を入れるのと、扇風機と、葦簾がすべてです。葦簾を張って、冬用の二重窓を取り外すのが夏の行事になっています。今日の午前中にそれをやりました。午前中にやっておいて良かった! 午後は身動きも嫌になるほどの暑さでしたね。
我が家の外観を公開しちゃいましょう。南側のほぼ全面に葦簾が張られているのが判りますか?
約12mの長さになります。これが効くんですね、まったく風の温度が違います。葦簾を張るためのテラスにかけたお金が35万円ほど、3年に一度は新しい葦簾のために1万円の出費をしなければなりません。当初はクーラーを買った方が安かったんではないかと迷いましたけど、今ではこれで良かったと自信を持っています。高台に家があることと、近所が離れていることが幸いしています。大都市ではこうはいきませんものね。ああ、でも今日はクーラーが欲しかった(^^;;
○詩と詩論誌『新・現代詩』創刊号 |
2001.6.1
横浜市港南区 新・現代詩の会 出海溪也氏発行 850円 |
戦後詩の大きな流れを作ってきた『列島』、『現代詩』の後継誌として発足したようです。もちろん、現代の視点に立っての後継で、「創刊にあたって」という序文では「現代詩の衰退は批評精神の衰退であり、詩の方法意識の衰退である」と位置付けています。また、巻頭言にもあたる「詩の拡散現象及び閉塞状況」という文章の中で、中村不二夫氏は「現代の詩人に何より足りないのは、身銭を切って詩の資料をそろえ、そのために投資を惜しまないプロ意識ではないのか」と述べています。
インターネットに関連した発言も中村氏は書いており「インターネットは、詩の内実にはなんの貢献ももたらさないが、不特定多数に公平な情報を送り出すという点では画期的なツールである」としています。これは私も同意見なんですが、先日、ある作家から、道具によって作品も変わる可能性があるのではないか、という意見が寄せられました。具体的には、Eメールの書き方は詩に近いのではないか、というものでした。一概に頷けるわけではありませんけど、そんな視点も考える必要があるかもしれません。
まあ、いずれにしろなかなか厳しい指摘で、現代詩の一面を突いていると思います。その他、針生一郎氏の「詩の再生は可能か」、梅棹忠夫氏への聞書き「日本文化を守り育てる詩運動を!」なども読み応えがあります。私の感覚に非常に近いという印象を持っています。毎号楽しみになりそうです。
○倉岡俊子氏詩集『ほたる祭り』 |
2001.6.30
宮崎県東諸県郡富岡町 本多企画刊 2500円+税 |
ほたる祭り
群れから外れた一匹のほたるが
居場所をさがしている
岸辺の草にその光が沈んだとき
子供らの小さな手が
あらそっておそいかかった
右の木立
左の木立で祭りは始まっているが
迷いほたる
おまえの喘ぎは
もう仲間にはとどかない
人びとの歓呼とともに
金色の波がうねり
闇にながれる発光のなかで
さめた眼は まだ
彷徨う小さな光を追っている
いのちをかけたほたる火は
人の心を
地上の沙漠から浚ってゆく
足もとの三財川で
まるい月かげが優雅にゆれていた
詩集のタイトルにもなっている作品です。「群れから外れた一匹のほたる」というのは、倉岡俊子という未知の詩人の姿ではないかと思いました。一般的な詩人という言い方もできますが、ここではそのように解釈した方が良さそうです。なぜなら、ほたるという小さな存在を見詰める目が「いのちをかけたほたる火」というフレーズに現れているように、かなり重い存在だと感じるからです。
そういう重い存在に対して「まるい月かげが優雅にゆれていた」というフレーズを最終行に持ってくるあたりは、うまいなと思います。重さ、軽さ、透明感の比重をよく理解している詩人と言えましょう。「三財川」という具体的な地名を持ってくるのも成功していますね。地名というのは、ある面では危険と思っていますが、この場面では具体性を出していて、イメージが具体的になります。私は「三財川」を知りませんが、それでも具体的な名前によって具体的なイメージを紡ぐことができます。詩集のタイトルとしても、冒頭の作品としても申し分ないものと思いました。
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