きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラ カワハギ」 |
2001.7.6(金)
休暇をとって自動車運転免許証の更新、日本ペンクラブの電子メディア研究小委員会、日本詩人クラブ理事会とコナしてきました。一日に3つも片づけると気持がいいもんですね。
電メ研は今年度の活動方針の検討が主でした。秦委員長提案の電子文藝館構想、会員著作のデーターベース化などを協議しました。電子文藝館は、HP上に会員作品を公表しようというものです。一人1作、原稿用紙100枚程度を限度として載せます。初代会長・島崎藤村以下の作品を網羅しようという試みで、いかにも日本ペンのHPらしいものになるのではないかと思います。
会員著作のデーターベース化は、文字通り全会員の著作が一目でわかるものを目指しています。研究者には極めて有効なものになるでしょう。
それにしても秦委員長の熱意、頭の柔らかさには脱帽です。電メ研として今後どのようなことをやれば会員に喜ばれるか、と問われたとき、正直なところ私の頭は回りませんでした。それなのに秦さんは上記の構想をちゃんと持っていたんですね。どうも、これ以外にもありそうですよ。上記構想は理事会の承認を得なければ立ち上がりませんが、まあ、大丈夫でしょう。ますますおもしろくなるペンHPにご期待を、というところです。
詩人クラブ理事会は、新理事になって3回目ということもあって、かなりリラックスした雰囲気になってきました。規約を巡っての解釈なども本音で話し合えるムードでした。私の任務・広報に関しても新たに理事が一人加わってくれることになりました。大変だろうから増員してあげる、との理事長のお言葉には感激でしたね。やってみて、結構大変なのが判って、どうしょうと思っていたところだったんですよ。広報の専門委員は2名付けてもらっていますが、基本的には校正係ですので、あまり無理も言えず弱っていました。大助かりです。今まで例会などの録音は、個人のテープレコーダーでやっていましたが、詩人クラブの備品として購入してはどうかという私の提案もスンナリ受け入れてもらえたし、充実した理事会でしたね。
○藤倉明氏詩集『時の軌跡』 |
2001.6.30
埼玉県さいたま市 第四紀の会刊 非売品 |
シャボン玉飛ばそ
近ごろ魚の骨が
喉に刺さることがなくなった
どの魚も 食べやすいように
ピンセットで小骨まで抜き取られている
人の骨がもろくなったのは
魚をまるごと食べなくなったからか
街のあちこちに整骨院の看板
駅前ビルの空き二階
四つ角のドラッグストアの跡にも
新装開店した
橋のたもとの整形外科の待合室
いつも順番待ちの行列
大勢の人びとが骨に異常を訴えている
世渡りに 昔のような硬骨ぶりが嫌われて
自己主張を押し通そうとせず
周囲にやたら気兼ね 腰を曲げるから
首筋を痛め 背骨がひずみ
屈めた膝が悲鳴を上げる
道端で 子どもたちがシャボン玉を飛ばす
風にたちまちこわれるシャボン玉でも
飛ばそうと空を見上げる 意志の背骨が
子どもたちの姿勢を支えている
シャボン玉 飛ばそ
自己を厳しく見つめ、社会に対して鋭い批評を加える作品が多く収録されています。硬質なタッチの作品が目立ちますが、しかしどこかあたたかさを持っていて、奥の深い詩集だと思います。そのあたたかさはどこから来るのか考えながら詩集を読み進めるうちに、紹介したこの作品に出会いました。あたたかさの秘密を見た思いです。
「人の骨がもろくなった」原因はいろいろあって、多分に人間の怠惰や世渡り優先の無思想に起因しているようです。しかし、作者はそれを闇雲に非難するわけではなく「屈めた膝が悲鳴を上げる」と、むしろ庇う姿勢を見せています。その上、将来を担う子どもへは「飛ばそうと空を見上げる 意志の背骨が」あると、無限の包容力を見せています。ここに「シャボン玉」を持ってくるところは、詩作の技術としても素晴らしいのですが…。
詩集の中では「メス」「そら耳」「道行き」などが作者本来の詩のスタイルのように思います。作者の批評眼を紹介するという観点からは、そちらを転載すべきでしょう。しかし、その奥にこの「シャボン玉」という作品は存在するように思いました。繰り返して読むたびに、読者の脳をやわらかく刺激する詩集です。
○沼津の文化を語る会会報『沼声』253号 |
2001.7.1 静岡県沼津市 望月良夫氏発行 年間購読料5000円 |
巻頭言で落語家の柳家さん喬さんが「フェスティバル
ドゥ オウタム
アパリ」という文章を書いています。昨年、パリで開催された芸術祭に招待されて、通訳なしで落語を演じたそうです。ポイント、ポイントでのテロップはあったそうですが、フランス人の観客は「理解しがたいものを観客として最大限の努力をし、フランス人として自分の理解できる部分を確実に楽しんで」くれたそうです。そして、そのあとに次のような〆の文章が続きました。
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外国の言葉を喋る事も大切かも、外国の料理を好む事もそれもいい、外国の品々を身につけるそれがファッションかもしれません。でもそれが国際感覚でしょうか、自国の文化をしっかり身につけ、その感性の中で他国の物事を理解し楽しむ、そしてその答えを確実に他国に返す、それが国際人になって行くのかと思いました。私には程遠いことですが。
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確かにその通りですね。音楽などは言語の意味が判らなくても理解できますが、話芸となるとちょっと難しいと思っていました。しかし、それでも「自国の文化をしっかり身につけ、その感性の中で他国の物事を理解し楽しむ」ことが大事なんですね。同じ日本語なのに歌舞伎や能は、言語として理解できないところがあっても、楽しむことはできます。それと同じように考えればいいのかな、と思いを新たにしています。
○才川浩一氏詩集『7』 |
発行年月日未記載
埼玉県所沢市 私家版 非売品 |
退屈な三次元
瓦礫を造る仕事を与えられたような
堪らなくつまらない無意味な日曜日
延々と磨り減らしながら生き
情熱が湧かない時計がススム
あざやかな翼を広げても
降り注ぐ景色には届かず
雨粒のように冷たくて
声を重ねる影すら消える
燃える気持ちは灰になり
何も無い退屈な三次元
現実を無機的に「三次元」と捉える思考に着目しましたが、もうちょっと工夫が必要に思いました。例えば第1連はせっかく「瓦礫を造る仕事を与えられたような」という言葉が出てきたのですから、それを頭の中で具体的なイメージに作り上げた方が良いのではないでしょうか。その具体化が詩作≠セと私は思っています。具体化できたら、そこから何を削って何を残すかに拘らなければならないのは言うまでもないことですが…。
詩的な感性はお持ちで、同封のお手紙から推察すると、詩を書かずにはいられない理由もあるようです(私はこの理由≠熨蜴魔ノしています)。まだ20代のお若い方ですから、いい詩をたくさん読んで、ご自分の作品を客観的に見る訓練をしていけば、いい詩人に育っていく可能性があると思います。詩を書くことが個人個人の人生にとって、本当に重要なことなのか私には判りません。詩を書かない、文芸に関与しないという選択肢も重要です。早急に結論を出す必要はありませんから、ご自分の人生の中で詩がどういう位置を占めるか、考えてもよいでしょうね。
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