きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラ カワハギ」 |
2001.7.21(土)
日本ペンクラブの電子メディア研究小委員会では、「電子文藝館」創設の議論が花盛りです。ここ2回ほどの委員会で基本方針が出され、7月理事会で承認されましたので、現在、メーリングリストで詳細を話し合っている最中です。発案は秦恒平委員長。参加した委員全員の賛同を得て、今年の電メ研活動の柱となるものです。
秦委員長は現在の日本ペンの活動にご不満をもっているようです。あまりにもイベントや大衆受け狙いの企画本しか出版せず、本来の文藝家の活動ではない、とおっしゃっています。そんな議論の中で、それじゃあ我々でインターネット上に電子の文学館を作ろうじゃないか、ということになりました。初代会長の島崎藤村以来の会員作品をネットで公表し、無料で自由に読んでもらおうというものです。
現在出されている案は、会員一人1編、原稿用紙100枚以内、短歌・俳句は一人50首、詩は適宜、です。死亡会員の場合は著作権継承者との折衝など、越えなければならないハードルは多いのですが、完成すれば半永久的に残る、日本文学の金字塔になると思います。いずれペン会員には趣意書が配布されますが、今のうちに自信の1作を選んでおくといいですね。
現在のペンクラブHPとは別の形で「電子文藝館」HPを立ち上げる予定です。館長はおそらく梅原猛会長がなって、副館長に秦恒平理事、私は技術的なサポートという役割になると思います。技術的、なんて言えるほど私は技術力を持っていないので心配なんですが、そういう時のために相談できる技術者を社内に確保していますから、まあ、なんとかなるでしょう。でも心配なんで、今日はPDFの解説書を買ってきましたよ。テキストでベタのものよりPDFの方が読みやすいでしょうし、縦書きも検討したいのです。文芸作品ですから、やはり縦書きで読みたいですよね。
そんなことを、この1年はやっていきます。このHPでも随時書き込んでいきますから、ご意見、ご忠告などありましたらお寄せください。
○高谷和幸氏詩集『残氓』 |
2001.7.30
東京都新宿区 土曜美術社出版販売刊 2000円+税 |
残氓
これは一枚の写真である
サイゴン・1968・2・1
「容疑者」を路上で射殺する
グエン・ゴク・ロアン国家警察長官
そしてカメラマン
それは刺青した皮膚のようなシャツである
ぼくはそれを着ると
いつの間にか後ろに手錠をかけられ
誰かに小突かれ歩かされる
広場へと向かう辻に長官が立っている
離れたところにカメラマン
それはつまらないジョークである
昨日それを言った
処刑の前に何か言おうとして
思い出してしまった
ぼくは疲労した
喜劇的な死を胃が欲しがっている
これは一枚の写真である
と同時に百分の一秒の
ぼくの闇である
青い閃光のようなものを感じたが
発射音からシャッターを切るまでの
タイムラグを考えたからだろう
それは静止画を見るようにゆっくりとした
鉄の爪の飛来である
摩擦音を立てながら
右のこめかみに侵入し
反対側から出る時は
すごいスピードの風になっていた
処刑されたぼくはななめに傾いだまま
微妙なバランスで立ち続ける
長官であるぼくは胃潰瘍に悩み
銃を発射し続ける
この写真は複写された「想像力」であり
ぼくのなかで一人称である
詩集のタイトルポエムです。「残氓」はザンボウと読み、辞書によると生き残った民≠ニいう意味だそうです。非常に味わいのあるタイトルだと思います。それを念頭にこの作品を鑑賞すると、深い意味を持っていることに気付かされます。ベトナム戦争の最中の写真を記憶している方も多いのではないでしょうか。「刺青した皮膚のようなシャツ」を着た「容疑者」が、制服の「国家警察長官」に「右のこめかみ」に拳銃を当てられているというものです。有名なその写真をモチーフにした作品です。
作品の中では、その「容疑者」と長官、そして「カメラマン」が出てきます。それらがだんだんと「ぼく」になっていって、最終的には「ぼくのなかで一人称である」と言い切るところまでいってしまいます。そんな構成も作品としておもしろくて、作者の力量が判りますが、非凡なのは「残氓」というタイトルです。タイトルは生き残った民≠ネのです。作品の中で死亡したのは「容疑者」だけですから、生き残った民≠ヘその他の人々ということになります。それをタイトルにしているわけです。
おそらく、この生き残った民≠ニは作中人物に限らず、我々すべてを指しているのではないかと思います。その事件をただ見ていた我々すべてです。唯一救われるのは「ぼく」で、「ぼく」は「容疑者」になり「長官」になり、書いてはいませんが「カメラマン」にもなっているかもしれません。救われる≠ニいう表現は作者にとっては不本意でしょうが、そんな読み方をしてしまいました。もちろん「ぼく」も「残氓」の一員ですから、理論的には同罪≠ネんですがね。ちょっと深読みをしてしまったようです。
○詩誌『ひょうたん』15号 |
2001.6.10
東京都板橋区 ひょうたん倶楽部・相沢育男氏発行 400円 |
5月のひげ/阿蘇
豊
3月も20日をすぎると
5月のための下準備
手帳に数字を書き込むや
うぶ声もなく
立ち上がる1日
くくられる1週間
31数えてひと月のあがり
いまだ清浄なる5月
行方不明のわが5月
指を風にかざしてウロウロしていると
はずれた天気予報のように
約束が舞い落ちてきて
手帳に数字を書かなければ
しかめっ面を見せることも
風邪をもらうこともないだろうに
あの花びんのチューリップのように
根がなくなれば
数を数えなくてもいいのに
もう数え終わったか
これからいくつまで数えられるのか
余白の20010323の手はじめに
ザラつくひげをそる
今日は今日の
明日のひげはそれない
5月のひげは5月にそる
「今日は今日の/明日のひげはそれない/5月のひげは5月にそる」という最終行がいいですね。当たり前のことなんですが、改めて言われると、そうなんだよな、と思わず納得してしまいます。その前の忙しそうな日常があるんで、この最終行は効きますね。で、いつも思い出すのはアラブ(だったかな?)のことわざ。明日できることを今日するな、と言うんです。作品とは逆ですが、これも一理あると思いませんか。
で、作者に助言。じゃあ、ひげ伸ばしちゃったら? ちなみに私は14ヶ月伸ばしています。でも、剃るより管理が大変ですけど(^^;;
まあ、そんなことより、おもしろい作品でした、「数」の使い方も効果的でした、と言わなければなりませんね。作者の頭の柔軟さを知らされました。
○鬼の会会報『鬼』350号 |
2001.8.1
奈良県奈良市 鬼仙洞盧山・中村光行氏発行 年会費10000円 |
泥棒神
千葉市原市の建市神社は泥棒を保護し、神社の山に隠れると見えなくなるので泥棒神と呼ばれる。岡山市の戸隠神社は泥棒の宮だ。泥棒が祠に隠れて逃げられたので、境内に松を植え泥棒松と称する。庚申の晩に盗みに成功すると、あとは絶対発見されない。だから庚申の晩に生まれると泥棒になるので、男の子はカネ太郎、女の子の場合はおカネなど。カネに関係ある名前を付けるものとされた。
--------------------
大好きな連載「鬼のしきたり(39)」より。泥棒にも神さまがいるとは! 八百万の神とは言いますが、まさか泥棒にまでいるとは思いもしませんでした。日本の神々の懐の深さを知らされた思いです。西洋の神は神罰を与えるコワイ神様ですが、日本の神は明るくていいなとも思います。それとも、昔の人々は生活に困り果てて泥棒に走ったようですから、そんな事情も神様は汲んでくれたのかもしれませんね。現代の遊ぶ金欲しさに、という泥棒ではご利益もないのかもしれません。
市原や岡山の人たちはご存じなんでしょうかね。今度、近くに行く機会があったら寄ってみようと思います。別にドロボーになる気はありませんけど(^^;;
[ トップページ ] [ 7月の部屋へ戻る ]