きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラ カワハギ」 |
2001.7.23(月)
日本ペンクラブ電子メディア研究小委員会のメーリングリストでは、電子文藝館の創設を巡って議論続出です。創設することは理事会の承認も得ましたので、どう具体化するか、具体化するにあたっての問題点は何か、という議論です。毎日、MLを読むだけでも大変な状態です。ここでは、電子文藝館とはどういうものであるかを紹介しましょう。近々、ペンの会報にも載せられます。ちょっと長いですが、会員の方にはご一読をお薦めします。
日本ペンクラブ電子文藝館の創設
七月理事会で一致して承認された、「電メ研」提案「日本ペンクラブ電子文藝館」(初代館長は梅原猛会長)の構想をお伝えする。手続き等の詳細は追ってお知らせする。
発想は、@文藝・文筆の団体として、日本PEN全会員の自薦作と略歴を、適切なジャンルに分載し、インターネットで廣く国内と世界に発信したい、A全会員の一人一人が地域差・分野別に関係なく、平等に、その「存在」を世界に示したい、以上の二点にある。
地方・遠方の会員に、会費負担に見合う活動の「場」をぜひ提供したい気持ちが発想の根に在る。「会員である事実」を、本来の「文藝・文筆」の面で実感できる経済的な「場」として、ワールドワイドな「ホームページ」を活用しない手はないと考えた。
利点は、@日本ペンクラブが存続する限り、会員相互の実績を「文藝・文章」により半永久に遺し得る。A一会員に一作・一文と限定し例外は認めないが、掲載一ヶ年を経た作品は、随時容易に別作品に差替えることが許される。Bウェブの立ち上げに軽微な経費を要する以外、維持・運用・拡充にも、「紙の本」刊行や「会員の墓」建設に比し、問題にならぬほど全く経済的で、しかも簡単に、この秋にも「電子文藝館」は実現し、作品の発信を開始できる。Cまた、現存会員にとどまらず、島崎藤村初代会長以降歴代会長をはじめ、物故会員の作品も掲載できる。その魅力と意義ははかり知れない。D加えてこの「アーカイブ=文藝館」から、真に日本ペンクラブらしい作品叢書や選集が出版可能になる道もある。E高雅なデザインと便利な目次・検索法の設定により、文字通り莫大な文化財的アーカイブとディスプレーが、質・量の両面に期待でき、しかも器械の収容量には何の不安もない。F原稿料はなく掲載料もなく、アクセス課金もしないが、充実すれば、やがての広告掲載収入が十分見込める。Gプロフェショナルな会員による自負・自薦の作・文章を審査はしない。責任も名誉も会員自身のものである。H外国語原稿もむろん可能である。I言うまでもなく学者・研究者の論考も充実したい。
問題点も、二つある。@電子メディアの弊として、著作権が有効に守りきれないオソレがあり、それも覚悟して構想と意義とに賛同してもらわねばならない。Aいわゆるエディター会員の為にも、最良の頁設定をよく考慮し工夫して不公平を排したい。
寄稿は、@原則としてファイル化したものをディスクかメールで。A少なくも、原本ないし綺麗なコピープリントを。B手書き原稿は無理。C自薦作の量的限界は百枚前後と予期しているが、詳細は後日にお伝えする。D自負・自愛の作をぜひお願いしたい。ウェブの立ち上げと以後の運営には「電メ研=文藝館」編輯室が当たる。寄稿のお願いには快くご協力下さい。以上
(電子メディア研究小委員会 委員長・理事 秦恒平)
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若干、修正が加わる可能性がありますが、ほぼこの通りになるでしょう。新たに、HP「ほら貝」で有名な加藤弘一氏もペン会員・電メ研委員としてお迎えしました。技術的な面は私が見ることになっていますが、加藤氏のご協力も得られることになり、心強い思いです。さあ、これからが大変。
○個人詩誌『等深線』6号 |
2001.2.14
横浜市旭区 中島悦子氏発行 非売品 |
ホータン
サイコロがころんと転がるようにおきてしまう
親殺し 子殺し の ニュースが流れるなか
織機ははげしく動いている
めったざし さいのめぎり
とんからり
化学繊維の息もでき ない布のなかにも
ニュースは織り込まれていく
めったざし さいのめぎり
とんからり
そして巨大スーパーの棚一面に
五十色のフリース
虹を越えてまで並んで
人々の破綻を待っている
製造は追い付かない
それがこわいとも おもわない
安い服をきて人殺しか
ある日 店員がつぶやく
いつもよりていねいに
とんからりと たたむ
ホータンの町に まだ工場はない
古くからの絹の町では
みどりが
ここだけ 豊かだ
「ホータン」という意味が判りませんでした。辞書を何冊も調べてみましたが載っていませんでした。「古くからの絹の町」、あるいは作者の想像上の町として鑑賞しました。
繊維製品の使い方が巧みだと思います。それを着ている人間の現状と、その対比としての「みどり」。作者の中で何か鬱積したものがあるのかな、と感じてしまいます。でも最終連を見ると、本来はどこに視点があるのかが判って安心ですが…。感想にもなりませんが、そんなことを感じました。
○篠崎道子氏詩集『六月のバラ』 |
2000.11.21 東京都千代田区 砂子屋書房刊 2500円+税 |
六月のバラ
友よ こまやかな土にほぐれてしまった友よ
なにかたいせつなこと 忘れていたこの六月
地下鉄の暗転する窓ぎわで
赤ん坊のように抱えていた
バラのつぼみが ほどけ
八重咲きの 渦巻きデモにかわったのです
中心から遠く 煽りのなかを
つまづきながら駆けていた
二十歳のわたしたち
ずぶぬれの月 右の靴をなくした月
いけぶくろ ごこくじ えどがわばし
さかのぼる 明暗のゆりかご
わたしたちは腕を組んでいたが
石や棒を持っていたわけではない
ヘルメットなど被ってもいなかった
持っていたのは
外へ向かう片結びのことばの束
胸に 素手の花綵(はなづな)列島を夢みていた
いいだばし いちがや 夢破れ
内へ内へ肉叢をわけ
骨を抱く地縛(じしばり)の声に
耳傾けはじめたあなた
ぬれそぼった墓標のような
一号だけの二人誌を遺していった
あの日々の白いブラウスの遺影
山里の母に守られている
そのほほえみそのひたむきさ
いまバラの香りにくねまれて
花芯のほのあかり 樺さん*の
面射しとかさなる
友よ そちらからはよく見えるでしょう
こちらの相貌
わたしは相変わらず のろまで怠け者
空梅雨 水無月
ながたちょう の手前で降りるのです
若い詩人の胸のボタン穴に
この紅いバラを捧げるために
かんばみちこ
*樺美智子 一九六〇年六月十五日。安保反対の全学連デモ隊に加わり、国会南通用門から構内に突入。警官隊との衝突の中で倒れ、窒息死。当時東大文学部四年生。
私の世代は70年安保ですから、作者とはちょうど10年違うことになります。70年安保の原点、60年安保の作品を久しぶりに見た思いです。ちょっと作品から離れますが、70年安保当時、不思議な思いにとらわれたことを思い出しました。私たちの回りには60年安保を経験した人がほとんどいなかったのです。あれだりの事件があって、たった10年後の70年安保だというのに、回りにいたのは同世代の者ばかりでした。運動の継続性の難しさを実感した次第です。80年、90年安保というのはありませんでしたが、もしあったとしたら、逆に私たちの世代の何人が参加していたか、心もとない思いをしているのも事実です。
作品は「地下鉄の暗転する窓ぎわ」から始まっていて、この導入部は見事です。明るいホームから電車が滑りだし、すぐに暗転する光景は、過去に入っていく情景としては無理がありません。そして6月は「ずぶぬれの月 右の靴をなくした月」。これは10年後にも同じことになっていきます。そして最終連で現実に戻って「ながたちょう の手前で降りるのです」。おそらく地下鉄半蔵門線の半蔵門駅、真上がダイヤモンドホテルです。そこで行われる「若い詩人」の何かの祝賀会で「この紅いバラを捧げる」のです。バラの使い方も「八重咲きの 渦巻きデモにかわった」ときから続いていて、無理がありませんね。
作品は詩集のタイトルポエムにもなっていて、いい仕上がりだと思います。他の作品から比べると異質なんですが、この作品は他よりもストレートで、作者本来の姿勢を見せているように思います。作者に無理を言って送ってもらったいきさつがありますが、いい詩集に出会えてうれしいです。
○佐野のりこ氏詩集 『仙人・長老・緑の小馬』 |
2001.8.10
神奈川県相模原市 スタジオ・ムーブ刊 840円 |
緑の小馬
そばにいるよ
いつだってそばにいるよ
無邪気にも
きみはなかなか気がつかない
きみが夢の通路を間違えないように
ずっと
見守っているんだ
いつか
無事にもうひとつの国へ
きみが行ってしまうまで、永遠にいるよ
きみの
そばに
佐野さんは童話作家でもありますから、この作品は童話のように読んでもいいと思っています。「きみ」は小さな男の子、そばにいるのが守り神「緑の小馬」でしょう。「夢の通路を間違えないように」「見守っている」、「無事にもうひとつの国へ/きみが行ってしまうまで、永遠にいる」存在です。小さな子どもには必ず付いている神を表現しているんだと思います。
しかし、裏を返すと怖い作品なんです。「夢の通路を間違え」ると、人間はその夢から逃れることができなくなります。ちょうど科学≠ニいう夢から逃れることができなくなったように、詩≠ニいう夢にしばられているように(^^;;
そして「もうひとつの国」というのは、大人の社会であり、その先の死の国≠ナあると思うのです。
童話を裏返して解釈することが最近の流行りのようですので、つい、私もそんなことをしてしまいましたが、深読みし過ぎかもしれません。やさしい母親の気持ととってもいいのでしょう。
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