きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
mongara kawahagi.jpg
新井克彦画「モンガラ カワハギ」




2001.7.25(水)

 市教育委員会が事務局を勤める「市青少年健全育成会連絡協議会」という長たらしい名前の会の総会がありました。市内にある6つの育成会の集合体で、各育成会の会長・副会長、教育長などが集まりました。総会そのものはどうということはなかったんですが、最近、駅前に屯する10代後半の若者についての情報交換の中で唖然とする発言がありました。ある単位育成会の会長の発言ですが、破防法の適用ができないものか、というものでした。
 主に政党や政治結社の活動を事前に規制する悪法をもちだしたことに、一種の恐怖を覚えました。普通の人でさえそんなことを考えるのか、と。初めて会った人ですから普通の人≠ゥどうかは判りませんが、まあ、見た目はフツーです。思わず反論しようと思いましたけど、別の人から「それはちょっと」という発言もあり、結局、誰も相手にしなかったので、捨て置きました。
 私も一度、屯する若者が煙草を吸っていたので、話をしたことがあります。煙草なんかやめとけ、あとでやめられなくなって悔やむゾ、俺も若い頃から煙草を吸っていて、今はやめられなくて悔やんでる、と言いました。彼らは素直に「そうですね」と言って、煙草をきちんと灰皿に入れてくれたのです。根はいい奴らなんだろうと思います。
 確かに茶髪の若い男が5〜6人、ローカル線の狭い駅で屯するのは、特に女性は怖いかもしれません。しかし何もしていない者を、ただ集まっているというだけで破防法とは言語道断です。何かが起きてからでは遅い、というのがその人の主張でしたけど、それなら自分で毎日パトロールに行け!と言ってやりたくなりましたよ。自分では何もせず、警察や法律だけに頼るのはどうかと思いますね。だから大人はズルイと言われてしまうのかもしれません。
 じゃあ、お前はどうするんだと問われると、本当のところは答に窮します。やっていることは、そういう連中になるべく近づく、という程度です。近づいて話をするのはあまりありませんが、なるべく近づく。大人のみんなが君らを怖がっているわけではない、こうやってそばにいる大人もいるんだ、と思ってもらえればいいのかな、そんな程度です。でも、髭ヅラで、濃いサングラスをかけているときは、いつの間にか散っていますけどね。オレって、そんなに顔が悪いのかなあ(^^;;



月刊詩誌『柵』176号
saku 176
2001.7.20 大阪府豊能郡能勢町
詩画工房・志賀英夫氏発行 600円

 おさな子/三浦真理子

はじけるトマトの実の影に黄色い小さな花が咲く
裏の道を行く人に私は問う
おじちゃん どこへいくん?

人は誰もが人だった
村に一人の乞食のきよさん
きよさん どこへいくん?
いつもぶつぶつ呟いて 足はとても速かった

光に満ちた麦畑の畦道を行く
ボタンが掛け違いの白シャツを着たおにいさんに私は問う
おにいちゃん どこへいくん?
人は誰も誰も人だった

盆踊りの太鼓の音が止んだ
闇夜に帰るおばあちゃんに私は問う
顔は誰だかわからない
おばあちゃん どこへいくん?
人は全部人だった

土埃の堤の道は
アメリカ兵が自転車で通る
彼らは戦場へ行くはずなのに
いつも口笛を吹いていた
黒い肌の人白い肌の人へ
女学校で習った英語をつかって
母はのびのびした声で問う

Where are you going ?

 「人は誰もが人だった」、「人は誰も誰も人だった」、「人は全部人だった」というフレーズがとてもいいですね。「おさな子」ののびやかな、素直な感覚が表現されていて、心が洗われるようです。時代背景も手に取るように分かって、同じ時代を生きてきた方だなと思います。「私は」という言葉が、最後のところだけ「母は」に変わって、時間の流れもうまく処理されていると思います。この「アメリカ兵」が行った戦場は、ベトナムだろうと想像しますが…。
 「乞食のきよさん」はいなくなってホームレスに変わり、「ボタンが掛け違いの白シャツを着たおにいさん」はついぞ見たことがなく、時代は変わってきたのかなという思いはあります。しかし、おそらく底のところでは何も変わっていないのでしょう。親殺し、子殺し、小学校に乱入、などの事件に接すると、むしろ昔より暗くなっている気もします。本当に私たちは「
Where are you going ?」です。一見、明るい作品ですが、ことによったら作者の真意はそんなところにあるのかもしれません。



日本全国詩人シリーズ 篠塚達徳氏詩集
アルミ缶グラフィティ 〜廃墟より〜
arumikan graphty
2000.9.1 東京都文京区 檸檬新社刊 1800円+税

 新しい終わりが始まる

新しい終わりが、いま始まる。
おまえがいままで、
ずっとしがみついてた信実も、
慣れっこになってた良識も、
後生大事に仕舞
(しま)い込んでた正義感すら、
どれももう、何の役にも立ちはしない。

時がふたたび、くるりとまわって、
残虐に、おまえの首をちょん切るまえに
おまえのその手で、
ダスト・シュートに投げ捨てちまえ!

暗闇に住み慣れた生
(い)き物には、
まわりの闇が心地好くなる。
闇の世界の住人には、
闇の世界がすべてなのだ。
手探りながら、腹這いながらも、
(と)きほぐれない、迷宮を抜け出ろ!

見えるだろう。
ひとすじの強烈な白い輝きが!
少しずつ、少しずつ、近付いて行くんだ。
そうして、本当の明日
(あした)が帳(とばり)を開(あ)ける。

 「終わり」の「始まり」を描いた作品ですが、耳が痛いですね。「真実」も「良識」も「正義感」も、私が生きているうちに獲得できればいいなと思っているものですから、それをまず捨ててみろという提言は、かなりシンドイものがあります。もちろん私が獲得しようと思っているそれらは、ちっぽけな取るに足らないものだと理解した上でのことです。しかし、「暗闇に住み慣れた生
(い)き物には、/まわりの闇が心地好くなる。」というのはその通りで、自分が考えていることなど「闇」でしかないと言われれば、まったく反論のしようもありません。
 まあ、作者はそんな兆発的なことを言っているのではなくて、古い殻を破れ、いずれ「ひとすじの強烈な白い輝き」が来るんだと書いているだけなんですが、脛に傷持つ身としては考えてしまいますね。この作品のいいところは、実はそこなんだろうと思います。ある意味では読者を参加させているんです。受け取り方は読者が勝手にやればいいんで、作品としては独立しているわけです。
 タイトルの「アルミ缶グラフィティ」はアメリカン・グラフィティ≠フ駄洒落だと書いてありました。そんなところにもこの作者の頭の柔らかさ、詩集のユニークさを感じます。まだお若い方のようで、この先どんな作品が出てくるのか楽しみです。



 
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