きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラ カワハギ」 |
2001.8.7(火)
お寒うございます(^^;; 14時現在の室温は24℃。先週までの猛暑が嘘のような気温です。足柄平野は雨まで降っていて、久しぶりの霧雨を書斎の窓から堪能しています。
私の夏休みも今日で4日目、午前7時半に電話で起されて、それ以来、本を読み続けています。机の上の整理も、本箱の整理もやりたいのですが、おそらくそれは無理でしょう。いただいた本を紹介したあとは『山脈』の月報作成、詩人クラブの「詩界通信」の原稿書きなどが待っています。とてもボケている暇はなさそうです。ありがたいことです(^^;;
○海埜今日子氏詩集『季碑』 |
2001.7.1 東京都新宿区 思潮社刊 2400円+税 |
季碑 土地の名
私は出生から、小学校に上がるまで、世田谷に住んでいました。長
屋のような家でした。父は売れない脚本家でした。その頃は売れて
いたのかもしれません。母はとても若かったので、騙されたと言っ
ていました。
父は祖父の代まで、裕福だった人らしく、貧乏でしたが、気品があ
りました。私は幼稚園も行かれなかったので、一人で遊ぶことがで
きました。私は父にとても愛されていました。妹はまだ産まれてい
ません。私は父によく似ていました。
私には二歳半ぐらいから、記憶があります。「どんな言語からも切
り離された季節というより、むしろ、言語の総体から切り離された
季節1」に近いあたりだと思います。まだことばをよく知らないので、
楽しいような気分のとき、それをつかむために、頭のなかで、ある
いは口に出して、リズムのようなものを、刻んでいました。
私は「記憶の徴候が現れ、やがて言語の岸辺で身震いして、そこに
立つ。それまでは、人は生きているが、生きている自分の姿は見え
ない。なぜなら 人は生きている自分の姿を
見ることはできないか
ら。2」、あるいは「いまだに自己がなかったときの自己について2」の、
かけらを覚えています。サークラインをじっと見てから、目を閉じ
ます。光の輪が、くらげのように浮遊します。私は太陽にすらなれ
ました。飽きることがありませんでした。
そこを引っ越すまでが、いちばん幸せだったと、いつも思っていま
した。私には尊敬している人があります。その人が「じゃあ、その
季節を詩のことばで書かなくてはいけないね」と言いました。私が
黙契をやぶったので、十年来、没交渉です。私はその人に詩が似て
いるかもしれません。鶴星南北はいいですよ、と言っていました。
まだ読んでいません。
ことばを覚えたてのころ、名前が、とても新鮮でした。小田急線沿
線でした。線路ぎわで、オダキュウセンのオダ≠フ字は、海のほ
うにある小田原に行くから、オダなのだ、と教えられたことがあり
ます。私は枕木のはてまで、引きずられるようにして、オダワラ、
オダワラ、と口ずさんでいました。そのころから海や水が好きでし
た。買い物というと新宿でした。親戚の家は、路面電車で行きまし
た。若林、山下、代々木八幡、梅が丘、参宮橋、どれも懐かしい響
きです。ちがうでしょ、世田谷代田って言ってごらん。私はわざと
言い間違えをしたものでした。セタガヤライタ、セタガヤダイラ。
父はとてもうれしそうでした。
今住んでいる下赤塚は、とても静かなところです。わすれた頃に、
電車のとおざかる音が聞こえます。このあたりの商店街は、宮の坂
だったか、豪徳寺だったかの、やさしい活気があるように感じられ
ます。赤塚植物園は、いつ行っても人けがありません。父はたくさ
んの草花を育てていました。裏切りということばが、誰かを引き裂
いています。私は自分が生まれ育った場所の、正確な所在を知らな
いのです。
1『アルブキウス』
2『舌の先まで出かかった名前』(共にパスカル・キニャール/高橋啓訳/青土杜)
著者の第一詩集ではないかと思います。ご出版おめでとうございます。
紹介した作品はこの詩集の中では異色な部類に属すと言えるほど判りやすい詩です。他の作品は言葉と言葉のぶつかり合いがおもしろいのですが、難解です。著者の名誉のために、意味のない難解さではないことを申し添えておきます。例えば「年端のたわんだ女だった」(作品「灯の裏」)という言葉が出てきますが、これなどは「年端のゆかない」という言葉からの連想だろうと想像しますけど、うまい使い方だと思います。そのようによく計算された言葉を使っていますが、一つ一つを解きほぐしてゆくのは大変な作業になります。
そういうわけでこの作品を紹介してみました。著者の詩の原点が判るような気がします。生れ育った土地、現在住んでいる土地への愛着が伝わってきて、作品の難解さへの解答があるように思います。ここでも「裏切りということばが、誰かを引き裂/いています。」という言葉が唐突に出てきて驚かされますが、前後から関連づけて考えられ、鑑賞の邪魔にはなりません。むしろ作品を引立たせる役割をしていて、うまいなと思います。新しい詩人の誕生を祝います。
○詩誌『思い川』10号 |
2001.9.1
埼玉県鳩ケ谷市 桜庭英子氏発行 非売品 |
空/中 正敏
深夜、なにがあったか
黒靴が一つ忘れもののように
明け方の路上に落ちている
片あし裸足のまま人はどこへ立ち去ったか
街角の空のしたで地に座りこみ
やってくるはずのないものを待ちつづけて
靴を脱いだり履いたり
苛立ちを繰りかえすお芝居があった
靴から離れた少しむこうに
----空あり、月極メ。----の看仮があり
地下にも空があるのかとおもう
落とした自分の靴を捜しに戻ってこないで人は
カンカンノを踊ってどこへ行ったか
何事もなかったかのように空車が街を走ってゆく
一見、ユーモアのある作品に思えますけど、実は怖い作品なんだと思います。「空」はもちろんソラでありクウであり、アキであります。この世の虚無をこの作品は表現しているのではないでしょうか。「やってくるはずのないものを待ちつづけ」るむなしさ、どんな事件があっても「何事もなかったかのように空車が街を走ってゆく」むなしさを表現しているのだと思います。
完璧な起承転結になっているため、最初は意味がよくつかめませんでした。キーワードの「空」とからめて考えるうちに、そういう結論に私は至りました。間違っているかもしれません。作者がお住まいの神楽坂周辺の街並みを思い描きながら、そんなふうに感じました。
○隔月刊・詩と評論『漉林』102号 |
2001.8.1
東京都足立区 漉林書房・田川紀久雄氏発行 800円+税 |
想いを失った都市/真神
博
自分が生きているよりも
他人が生きていることの方が多い
街を
救急車の一台が走る
今日も得体の知れない病に襲われて
都会はその心を
またこじらせてしまったらしい
来るものは全て来てしまったと思われる
街角に 忙しく十字架が掲げられ
人は愛している自分の唇で
都会が流す血のようなものを
そっと吸って上げなければならない
都会が持つ
「連続」
というイメージは怖い
イメージが怖いのは
それが本当の 人の子供だから
都会は
やっとここまで演奏されてきた音楽の様に
今日も無事に
夜になった
夜は創造された暗黒だ
人が 奇跡でも見るような目で
自分が産みおとして すぐに捨てた子供である
都会の夜を見ていると
都会が人に問う
幻のような電話がかかってくる
「昨日と今日の違いは」
冒頭の「自分が生きているよりも/他人が生きていることの方が多い/街を」というフレーズを見て、ユニークな視点の作品だなと思いました。そして「イメージが怖いのは/それが本当の 人の子供だから」というフレーズで、本質を見抜く作者の眼を感じました。都市に対する比喩も「自分が産みおとして すぐに捨てた子供である/都会の夜」でも判るように卓越したものを持っていると思います。
最後の質問もいいですね。私個人にとっても、本当に「昨日と今日の違いは」何だろうと思いますよ。タイトルの「想いを失った都市」とも相まって都市と人間の現状を鋭くえぐった作品だと思います。
○詩誌『見せもの小屋』35号 |
2001.7.1
東京都足立区 漉林書房・田川紀久雄氏発行 500円+税 |
口づけ/野間明子
なまじ飲み干す自信もないのに
波に口づけたのがいけなかった
そのとき海はすこしも騒がず
私の喉を灼き 火照らせ
風を呼ぶには至らなかった
鳥が墜ちる必要もなかった
正午の太陽が照りつけ
だだひろい砂浜に
縁どりのこわれた水が
いつか段々畑のあいだの墓地からそうしたように
乾いた松の根に腰を下ろし
帽子で胸元を扇ぎながら
見晴らしていればよかった
勝手がちがった
狂いすぎた
うみ海よ
とうからお前の知ったことではない
いつまでも
そんな顔して凪いでいろ
発想といい表現といい、おもしろい詩ですね。「波に口づけた」ら「私の喉を灼き 火照らせ」られた、という発想もおもしろいし、「縁どりのこわれた水」、「うみ海よ」、「そんな顔して凪いでいろ」などという表現はユニークで、つい引き込まれてしまいます。作者の頭脳の柔らかさを感じますね。
表面的には「波に口づけた」結果の作品ですが、ストレートに男性に「口づけた」ととっても良いのかもしれません。そう受けとめてもすべて辻褄が合うように出来ています。そういう二重構造もこの作品の魅力だと思います。
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