きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
mongara kawahagi.jpg
新井克彦画「モンガラ カワハギ」




2001.8.9(木)

 今日は56回目の長崎原爆記念日。犠牲になった方々のご冥福を祈ります。
 私の夏休みも今日で6日目。終日書斎にこもって、いただいた本を読んでいました。5月にいただいた宗教書の大冊2冊がまだ読みきっていませんが、それ以外はすべて読み終わりました。借金を返した気分です(^^;;



畠山隆幸氏詩集『浅間山』
asamayama
2001.7.9 長野県諏訪市 ゆすりか社刊 1600円+税

 生きる時

生きることに
迷いが生じた時
私はいつも思う
裸の自分になれば良いと

病気になって
手術を受けた時思った
これが生身の私です

生まれたままの
虚飾のない姿で手術台に載っている
これが私の生き様
というように横たわっている

裸の自分になるとおのずと
道は開いていた

 著者の第一詩集です。ご出版おめでとうございます。
 地域、人生に関わる多くの作品の中から「生きる時」を紹介します。「生きることに/迷いが生じ」ることは誰にでもあること。作者は「病気になって/手術を受けた時」に「裸の自分になれば良いと」悟り、そうすれば「おのずと/道は開いて」くるとうたいます。素直に読める作品です。
 私も怪我や病気で何度か入院した経験がありますが、手術を受けたことはありません。本当の意味では「裸の自分」になったことはありませんが、この作品を読むと、そういうものなんだろうなと思います。他の作品もすべて素直に読めて、好感のもてる詩集と言えましょう。



詩誌『きょうは詩人』2号
kyo wa shijin 2
2001.8.5 東京都武蔵野市
きょうは詩人の会発行 500円

 じじばば/長嶋南子

じじがもぞもぞ動く
ばばがさっとしびんをあてる

じじが風呂からあがる
すっぱだかでイスを支えに立つ
ばばはヨロヨロおしめをあてる
いちまい にまい さんまい

じじはいくらでも食べる
ふっくらしたほほ
かたわらのせいべいをまた
いちまい にまい さんまい

そろそろおむかえが

おむかえが
玄関先で足ぶみしている
いっかい にかい さんかい

あたたかい台所のイスのうえ
九十歳のおしめが八十六歳を抱く
おまえさえいればいい
とほほずりする

ばばは抱かれながら
お風呂の栓は
きっちり閉めたかとおもう

 なんとも痛ましい、とも言えますがその反面ほほえましさも感じます。それに男と女の本質的な違いも見えますね。「じじ」は「おまえさえいればいい」といつまでも夢みたいなことを言っているのに対して、「ばば」は「お風呂の栓は/きっちり閉めたかとおもう」と、あくまでも現実的です。それがこの作品では一番おもしろいところで、老老介護問題の作品ともとれますが、私は前者にこだわりたいですね。
 蛇足ですが「かたわらのせいべい」はかたわらのせんべい≠フ誤植だろうと思います。そのように読みました。



内藤喜美子氏詩集『夜明けの海』
現代日本詩人新書
yoake no umi
2001.8.20 東京都文京区 近代文芸社刊 1500円+税

 化ける

狐になるか狸になるかは勝手だが
女が化けたがるのは
見てもらいたい人がいるからだ

好きな度合いが
大きければ大きいほど巧妙に化けて
太い尻尾もスカートの中へ
押し込めてしまう

たまに尻尾の先端がはみ出し
その正体を見破られてしまうと
男の心は興ざめ
毛並みの上にまぶされた白粉の上に反吐を吐く

狐になっても狸になっても
女は最後まで
そのものに成り切ることが肝心だ
美しく化ける術は武器でもあり
男への愛の証でもある

化け方を忘れてしまっては
ただの動物に過ぎないではないか
三段腹を抱え四つ足で這いずり回る姿なんて
男にとっては真っ平御免のはずだ

女は清く美しく化けることにより
自分自身をも開花出来るのだ

 やっと女性の本音が聞けたなという思いです。特に最終連に2行はそう思いますね。女性自身の可能性を広げるためにも大事なんでしょう。でも、男の前で堂々と化粧するのはやめてもらいたいものです。電車の中で化粧をしている若い女性を見ると、私なんかは「
見てもらいたい人」の対象ではないことが嫌でも判ってしまって、不愉快ですね。それに化粧の後のティッシュが床に落ちていたりすると、おいおい、顔造る前にやることがあるだろう、と言ってやりたくなります。
 それと若い男性の化粧がよく理解できません。もちろん私も髭を整えたり髪をとかしたりしますから、これも化粧の一種でしょうが、相手に不快感を与えないたしなみのつもりです。化粧はたしなみを越えているんではないかと思います。「自分自身をも開花出来る」方法は、化粧ではないんじゃないかと思いますけど、中年男の僻みかなぁ。
 紹介した作品は決して詩集の本流というわけではありませんが、ついついおもしろくて紹介してしまいました。詩集の本流は家族や自然への思いが伝わってくる作品群です。



鬼の会会報『鬼』351号
oni 351
2001.9.1 奈良県奈良市
鬼仙洞盧山・中村光行氏発行 年会費8000円

 雑学と博学の違い
 雑学家は個性尊重で、百人の雑学家がおれば百の形がある。学校の勉強と異なり、特性と才能に合わせて学ぶのだ。勿論、時間も場所も気まま。いうなれば、遊びの学問ゆえ苦痛なしに誰でも学べるのだ。雑学者は一種のコレクターだが、物知りや博学家とは一味違う。博学家は苦労して知識を集める。雑学者と異なり、学問の一巻として集めるのに苦労するのだ。尊敬されるが、時に畏怖される。

 なるほど。雑学と博学の違いは歴然としているんですね。私もどちらかと言えば、ひとつの道を極めるよりは雑然としたものを好きなように学ぶのがいいです。「遊びの学問ゆえ苦痛なしに誰でも学べるのだ。」というのはうれしい言葉です。こんなことを書くと、いかにもそれなりの勉強をしているようですが、そんなことはありません。「博学」を変換しようとしたら「薄学」が出てきました。私にぴったりの言葉です(^^;;



 
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