きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラ カワハギ」 |
2001.8.20(月)
朝起きて会社に行ってみると、どうも足の調子がおかしいのに気づきました。太股の筋肉が痛くて、まるで走ったあとのようです。走った記憶がないので、何かなと考えて、思い至りました。本の片づけです。2年ぶりの片づけで、屈んで作業をしたのがキイタようです。畳の部屋が無くなってからは特に屈むという動作をしなくなっています。筋肉というものは、使わないとどんどん衰えていくんですね。身を持って理解しました。うーん、単なる老化のような気もしますが(^^;;
○柳澤澄氏詩集『昏昏たる夏』 |
1996.9.16 長野県長野市 ほおずき書籍刊 1300円 |
逃水
まだ目も開かない黒い
仔猫が五匹震えていた 傍ら
呼吸することを白ら止めた
アキラは動かなかった
仔猫をぎゅうぎゅうと
踏み潰す激情
三年が経ったというのに
私の呼吸は無意識につづく
木苺が赤みを滞びはじめると
逃水はアキラを拐して消える
時間は回転の定まらない風車
ロマンロラン協会の
お人好しで偽善に充ちた
冊子を山峡の村まで
届けてくれたノリコの行方も
沓として深海に消えたままだ
山麓は葛や木苺の刺が覆い
氷河期が戻ってくる
アキラが戻ってくる
夜 山腹のサービスエリアの
灯が美しいとみんながいう
美しいのは時々山頂近く
私を招く 狐の嫁入リの灯だ
いつか あの黒い仔猫は
全部殺してやろう
公務員になったばかりの、24歳で自死したお子様への鎮魂詩集と受けとってよいと思います。他の作品の文脈からは過労死だった気配もうかがえます。作品の鑑賞としては無用とのご意見もあるでしょうが、私は作品の根底に迫るためには必要な認識だと思っています。痛ましい事件だったろうと想像しています。特に最終連を拝見すると、その思いを強くします。私には子を亡くした経験はありませんが、一人の親として「いつか あの黒い仔猫は/全部殺してやろう」という意識を想像するのは、難しいことではありません。
純粋に作品として鑑賞するなら「逃水」というタイトル、「アキラ」「ノリコ」「ロマンロラン協会」というような固有名詞は効果を高めていると思います。倫理的にことは脇に置くとして、最終連はこの作品の命だろうとも思います。詩集タイトルの「昏昏たる夏」も(同名の作品も収録)、作者の鎮魂の思いを充分に読者に伝えるものだと思います。
○柳澤澄氏詩集『葛のこころ』 |
2001.5.30
東京都豊島区 詩人会議出版刊 1500円 |
酒
お酒飲むの止めなよ
やりたいことたくさんあるんでしょ
娘は言う
お酒飲む量減らしなよ
好きな山が待ってるんでしょ
娘は言う
お酒飲んで言うことは認めない
保身のためだけの人と同じでしょ
娘は新聞記事指さして言う
紀元前千年の中国では
酒に酔いつつ神に会い
魂の行方を決意したというけれど
このごろはあまりにも
哀しいことが多いから
寂しい風ばかり流れてゆくから
でもね ほんとに寂しい人哀しい人は
お酒も飲んでいられないのよ
寂しい哀しいでなく惰弱なのよ
おまえの瞳は
秋の底なし空のように澄んでいる
この哀しみも寂しさもまだ映らない
ああ 酒に別れを 言えるだろうか
こちらは私にも耳の痛い作品です。特に「お酒飲んで言うことは認めない」というのはキツイですね。私は家ではあまり話をしない方なんですが、酒が入るとついつい喋り過ぎることがあります。娘はまだ中3なんで、作品の「娘」さんのようなビシッとしたことは言いませんが、いずれ言われるだろうなと思っています。「でもね ほんとに寂しい人哀しい人は/お酒も飲んでいられないのよ」という言葉もキツイですね。もっとも私の場合は「寂しい」「哀しい」酒ではなく、楽しくなりたくて呑んでますけど…。
男の哀しみ、ご家族のあたたかさをこの作品を通して感じます。娘さんの「秋の底なし空のように澄んでいる」「瞳」も素直に受け取れて、拝見して心があたためられる思いをしました。詩の持っている力も感じさせる作品だと思います。
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