きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラ カワハギ」 |
2001.8.22(水)
台風11号の被害は無かったでしょうか。小田原地方は朝、そこそこの雨が降っていましたので、長靴・バイク用雨合羽・帽子という完全武装で出勤しました。お昼も雨に濡れて社員食堂まで行くのは嫌だったので、おにぎりを作ってもらいました。さあ、これで台風への備えはできたゾ、と思っていましたら、なんと14時には晴間が見えるではありませんか。おかしいな、台風の目かな、と思っているうちにどんどん青空が広がって、結局、台風はいつの間にか過ぎてしまったんですね。帰宅時はまだ青空の残る中を長靴履いてトボトボ。なんか、アホらしくなりましたね。でも同類が何人かいましたので、少しは安心しましたけどね。
今回の台風ではインターネットで情報を集めました。ヤフーの天気情報と気象庁の情報です。でも、どちらも情報は古いですね。早くても1時間前、これじゃあテレビやラジオの方が早いワ。じっくり天気図を見られるのは良かったですけど…。そこにいくとJRや私鉄の運行状況は早い。おおよそ15分ぐらいで更新しているようです。
○月刊詩誌『柵』177号 |
2001.8.20
大阪府豊能郡能勢町 詩画工房・志賀英夫氏発行 600円 |
幻視痛/肌勢とみ子
事故で足を失ったあとに
その ないはずの足の痛みに苦しんでいる人がいると言う
痛みに手の届かないもどかしさは
どんなにか耐えがたい苦しみだろう
生きることに不器用な子どもは
出来そこないの詩のように哀れで
たてつけの悪い戸を開けるように
むずかしい
何もかも心得ているかのような
何もかもあきらめてしまったかのような
渇いたその眼差しにあてられると
沈黙 という毒矢にあえなく倒されてしまう
顔を伏せて 逃れたつもりでも
逃げおくれた兵士のように
不様に射抜かれている
見えない心が痛むときがある
離れた心が痛むのだ
じんじんと伝わってくる痛みに耐えて
夏 私は少し痩せた
「幻視痛」というのは知っていましたけど、それを「心」に置き換えたところが素晴らしい。こうやって作品を拝見すると、誰にでもすぐにできそうな気がしますが、少なくとも私には発想できませんでした。「幻視痛」という現象があまりにも強烈だったために、それ以上の発想ができなかったのだと思います。「出来そこないの詩のように哀れ」というフレーズもいいですね。いつも出来そこないを書いている私は特に感じてしまいます(^^;;
最終行が、これまた素晴らしい。「心」と「夏」と「痩せた」の組み合せが絶妙なバランスをとっているように思います。「心」は詩の言葉として使うのは難しいのですが、この場合はしっくりきます。「幻視痛」という強烈な言葉に刺激された言葉なので、それだけ弱まっているから奏効しているのだと思います。
○詩誌『黒豹』97号 |
2001.8.15
千葉県館山市 黒豹社・諌川正臣氏発行 非売品 |
ひまわりの咲く頃/富田和夫
ふんぞりかえって
咲き誇っているひまわりなんて
茎をへし折ってやりたいくらいだ
身の丈ニメートルにもなって
みごとに咲いた大輪は
特につけあがりやがって
俺を見下ろしているのだ
せっかく譲ってやった
庭の一角だって
所狭しとぶんどって知らん顔だ
たまには
少しはほかの花のこと考えて
遠慮があってもよいだろう
ところがある時
首を垂れて萎れているじゃないか
どうした どうした
いつものお前らしくないぞ
くじける奴があるかと
叱咤してやったのだ
ふとふり返ってみると
俺もそんな咲き方をした頃があるのだ
どうしてそんなにひまわりを目の敵にするのか、ハラハラしながら拝見していましたが、最終連で納得しました。うまい落しどころだと思います。それと同時に我が身も振り返ってしまいました。もちろん思い至ることはたくさんあって、赤面です。「そんな咲き方をした頃」どころではなく、今でもそうなんだろうと思っています。
こういう作品は、ある年齢が来ないと書けないものかもしれません。「そんな咲き方をした頃」には決して考えることはないでしょうからね。私も本当に理解しているかどうかは怪しいものです。年齢を重ねた方には、重ねたなりの貴重な見方があると教わった次第です。
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