きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
mongara kawahagi.jpg
新井克彦画「モンガラ カワハギ」




2001.8.25(土)

 職場の懇親会で30名ほどと房総に行ってきました。マザー牧場をメインとして、東京湾フェリー・アクアライン・海ほたるを訪ねてのバスツアーです。今年6月には館山で日本詩人クラブの千葉大会もやったし、房総づいているようです。

010825

 写真は「海ほたる」での一齣。「海ほたる」も1997年の開業当初よりずいぶんと観光客が少なくなったようです。私は基本的には混雑が嫌いなので、空いてて良かった!と思いましたね。ちなみに右から二人目のサングラスが私。ヤクザみたいですみません。しゃがんでいる、もっとヤクザみたいな男が同じ歳の同僚です。最近は、徒歩通勤のこの男を同乗させて、パチンコ屋の玄関まで送り届けるのが帰宅前の一仕事になってしまいました(^^;; 顔はコワイけど、気持のやさしい、いい男です。パチンコで勝ったら缶コーヒーも奢ってくれるし(^^;;;;;



馬淵庚介氏詩集『拾遺夕照國愚草』
syui sekisyokoku guso
2001.9.1 大阪市北区 編集工房ノア刊 3000円+税

 

たつたいちだいの
ちひさな電車であつた
どの席もどの席も
空席がつづいてゐた
車内のあかりは
窗からあふれ
繪がすりの
赤い鼻緒のさきに
とどいてゐた

≪乗らはりますか≫
浅茅が宿に
昔をしのぶ考殘
≪ほな鄙のわかれや≫
夢にも逢はば
星の話しまひよ

たつたいちだいの電車は
木津川べりをはしる
れうれうと
修學院も
中書島も
(まち)の燈はひとむれとなり
遥かに瞬いてゐた

 私が勝手に「詩集」と名付けましたが、本全体のタイトルの中には書かれていません。序詩2編のあとに6編の散文があり、その後に「詩集T〜X」の詩篇があります。6編の散文は自伝とも受け取れられ、かつ、散文詩であると私は思います。著者の意図とズレているかもしれませんが、そのような理由で「詩集」と名付けさせていただきました。
 もうひとつお断りしておきます。紹介した作品中の空席の「空」、車内の「内」、乗るの「乗」はいずれも本字です。現在のパソコンでは表現し切れません。お詫びしてお断りしておきます。
 紹介した作品は詩集最後から2編目のものです。この詩集の全体を知る上で、終り方を知る上で重要な作品だと思っています。ここに至るまでに幼年期の記憶があり、奥様との出会いがあり、そして奥様を亡くされた哀しみが綴られています。そのほぼ最後にこの作品が位置するわけです。「夢にも逢はば/星の話しまひよ」というフレーズにその哀しみを読み取ることができると思います。
 もうひとつ重要なポイントは、ご覧のような旧仮名・本字使いの詩集だということです。著者は70歳を過ぎている方で、当然、幼少の頃から旧仮名・本字で過ごしてきたわけです。この自伝とも言える詩集では、幼少からの記憶を紡ぐ作業として、それらは当然の道具(精神)であるはずです。それが敗戦を境として急に現代仮名使いに変わる必然性を認められないと、著者はお考えになっているのではないでしょうか。実は読者にとっても同じことで、敗戦までの幼少・青年期は旧仮名で、それ以降新仮名に変わった詩集では戸惑いを隠せません。もちろん当初から新仮名で自伝を綴るという手法もありますが、感覚として幼少時は新仮名ではないはずです。今に至る、連続した一人の詩人としての自意識が旧仮名・本字を必要としているのだと思います。その拘りに賛同しながら拝見した詩集です。



詩誌COAL SACK40号
coal sack 40
2001.8.25 千葉県柏市 鈴木比佐雄氏発行 500円

 クリスマスの縛り首/河野俊一

樹に巻かれたコード
にぶら下がる
幾つもの電球は
「奇妙な果実」
のようだ

深緑のコードの色は
ビリーホリディの
押し殺した声に
よく呼応している
ぶら下がる電球は
どれもちっぽけで
ひとつひとつは
取るに足らない
フィラメントが切れても
すぐにホームセンターで買い足せる
高いものでもない

ツリーを前に
おまえはどこを歩いてきたのか
おれはどこを歩いているのか
見る側はいつも見る側だから
目に焼きつけ
写真をとり
思い出にし
描き
口ずさむばかりだ
手をくだしたのは
おれじゃない
と歌詞をつけた
古いブルースを

ひとつひとつの電球もさることながら
電球とコードの総和もまた
樹を縛り首にしている
おれたちはそれを
見ているだけだ
そうだろ?
クリスマスのシャンパンに酔い
電球ひとつひとつが名付けられるのを
拒んでいる

汝の名
「ホリディ」は
心穏やかなる安息日か
点滅しはじめる電球を
下の此岸から見上げ
おれたちはうそぶき
やがては通り過ぎてゆく

首の朽ちた樹の枝が
追いかけるように
伸びてこないか
その不安を
おれたちは
決して口に出さない

 ※リンチされた黒人の死体が、木に吊り下げられた様子を歌ったビリー・ホリディの『奇妙な果実』は、一九三九年に発表された。

 最近、流行りになっている樹に電球を着ける風潮を「クリスマスの縛り首」と、うまく表現した作品だと思います。
ビリー・ホリディの『奇妙な果実』は聞いた記憶がありますが、定かには思い出しません。しかし、1930年代のアメリカの狂気(今でもアメリカは狂気!)を思い出すことはできます。時代と地域の違いをうまく織り込んだ作品と言えましょう。
 なぜクリスマスになると
樹に電球を着ける風潮が流行ったのか、不思議でなりません。クリスチャンでもないのに…。私の会社でもその時期になると、有志が寄付金を集めて飾りたてています。まあ、角を立てる気もないので小額の寄付に応じていますが…。今年は「クリスマスの縛り首」と言ってやろうかと思います(^^;;



   back(8月の部屋へ戻る)

   
home