きょうはこんな日でしたごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画:ムラサメ モンガラ




2001.9.10(月)

 日本ペンクラブの電子メディア研究委員会が予定されていましたので、休暇をとっていました。午前10時にシャワーを浴びて、耳の後もきれいに洗って(^^; さあ、出かけようという段なった途端、事務局から電話。台風15号が近づいているから延期なんですって。ひどい雨だったからしょうがないですね。途中まで何とか行って、駄目だったら帰ってこようと思っていたほどですからやむを得ないことです。
 ぽっかり空いた一日でしたが、結局、パソコンのウイルス対策で右往左往して終ってしまいました。建設的な仕事ができない一日というものは後味が悪いですね。



藤森重紀氏詩集『半世紀回想』
hanseiki kaisou
2001.7.24 東京都町田市 龍工房刊 1500円+税

 沼田原の春

のりまきとゆでたまごと
栓抜きとラムネとを
新聞紙に別々にくるんで
沼田原への一年生の遠足

さくら並木の道のベの
酸模の穂はのびすぎて
見張りのほおじろの警告さえ晴れがましく
戦勝祈願の名を冠された子どもたちが
今では不用となった国防色のリュツクを
各自思い思いに背負って
沼の原っぱまで縦列行進する

いましがたまでのかげろうを追っ払い
まっさきに土手を駆けのぼった
東洋彦くんと勝利くんの目に
雪どけ水があふれてきて
深呼吸もままならない
おきなぐさが群がりすぎているともしらず
腹這いのまま枯れ草の曲線をたどる
勇子さんと栄子さんたち
(い)ったままの父や
位牌になったおじがいるのに
けさの空はなんとみずみずしいのだろう

もんペやズック靴もおさがりゆえに
身動きすらきごちないけれども
夕ごはんの語らいをふんだんにするために
根雪で焼けこげたみかんいろの絨毯を
一斉にわがもの顔で踏みしだいておこう
ときはなたれた陽ざしのごぼうびに
やがて
カバヤキャラメルが配られるはずの
沼田原の四月

 巻頭の作品です。略歴に「1944年岩手県生れ」とあります。それから想像するに、1950年頃の岩手県での遠足の模様でしょうか。「沼田原」というのは岩手県内の地名かな、と勝手に思い込んでいます。1944年生れの同級生は「戦勝祈願の名を冠された子どもたち」なんですね。「東洋彦くん」「勝利くん」「勇子さん」「栄子さん」という名でそれを知ることができます。
 ここに描かれた風景は、1949年北海道生れの私にも懐かしいものばかりです。「国防色のリュツク」や「カバヤキャラメルが配られる」ということには記憶があります。「もんペ」はさすがにありませんでした。「ズック靴」を履けるのは恵まれた子供で、私はゴム靴でしたね。ゴム長靴をちょん切ったようなもので、ズック靴のように擦り切れることもなく長持ちしました。
 表面的にはのどかな作品ですが、「戦勝祈願の名を冠された子どもたち」という言葉に代表されるように、決して忘れてはいけないものは何かを教えてくれている作品だと思います。「征
(い)ったままの父や/位牌になったおじがいるのに」というフレーズも重要な主題と言えましょう。



個人詩誌『犯』22号
han 22
2001.9 埼玉県さいたま市
山岡遊氏発行 300円

 キメラ

まだ薄暗い夜明け前の浜辺
あるいは
真夜中の鉄条網の抜け穴から
人知れず辿り着く
あなたの町ではとうてい住めなかった
奇異で不思議な生き物たちが
私の町では市民権をえるんですよ
どうどう、と歩いている

上半身詩人 下半身働き蜂
上半身ひと 下半身木の根っこ
キメラ
上半身ろくろ 首下半身天皇
上半身こんにちわ 下半身さよなら
上半身空 下半身海
言語難民キメラが
ホラ、団地の広場で盆踊りをしている
ホラ、けやき並木の下でラジオ体操をしている

私の町のマクドナルドでは
それぞれの生きる事件簿が
明日は美しい物語に変身するのを夢見て
発砲スチロールのカップの中で
うろうろ うろうろ
私の町の交番では
法で掟とあがめられているものの正体が
前科5犯のデカ長に
連夜 徹夜で取り調べを受け
たった今
不均等の余罪を白伏した

右半身囚人 左半身市民
右半身愛 左半身殺意
キメラ
右半身平和愛好者 左半身ハイエナ
右半身進化 左半身癌
右半身わたし 左半身あなた
妄想ファイター キメラ

地球はなんてぞっとする
だだっ広い実験室なんだろう
ねえ、キメラ
書物を出て行く
書物を飛び越す言葉たち
もう白いキーの上では踊れない
いびつだが 今夜
いびつだが
巡る九月の声に
みちびかれ
キメラ 月の息子になれ
キメラ 月の娘になれ

 「発砲スチロール」は私の誤植ではありません。おそらく作者は意識して使っているのだと思います。そのことからも判るように、意欲的な作品だと思います。人間の持っている二重性を告発している作品でしょうか。告発という言葉は的外れかもしれませんね。作者はそれを認識しているだけで、提示しているにすぎないのかもしれません。
 考えなければならないのは「月の息子」「月の娘」という言葉だと思います。これも二重性ととればその通りなんですが、あまりにも美しすぎる言葉ですね。作者は(1〜2度お会いしただけですが)意外とシャイなのかもしれません。表面に現れた言葉の裏に、作者の本質的な優しさを感じるのは読みすぎでしょうか。



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